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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十七章 天然というのも罪ですね
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(5)

 隣の椅子の背に黒のピーコートがかけられていた。

 室内は暖かすぎるのか、長袖のポロシャツ姿だった。ブレザーは自分の席の背もたれに。

「ここ、座っていい?」

 反応は薄く、わずかに頷く程度。静かに椅子を引き、持っていたコートを重ねがけし、座った。

 腕時計を、確かめる。

 五時を十五分過ぎた。残り四十五分。自習する彼が帰る様子は無論、無い。生物の難問に取り掛かっている。……私などに気を向けず集中する彼の、邪魔をしたくなかった。

 受験を終え気抜けた私が机に出すのは、桐野夏生の『OUT』。……参考書以外を堂々と学習ルームで読むのもどうかと思ったけど、一応はここの図書館で借りた本だから。

 椅子と机のセットが常にフィットしない。背中を丸めて窮屈そう。

 背筋をぴんと張って椅子に座る和貴とは大違いだ。

 また、……比べてしまう。

 こんなふうにこっそりお隣を盗み見た。彼は常に気づいた。

 どしたの。

 あんま僕に見惚れてないで、集中しな?

 素早く耳打ちをし、また人のことをからかう。

 真夏の和貴が恋しい。

 今日も早いねえ、真咲さん。――と笑いかける彼を目にする機会は失われた。だから、擦り切れたテープのごとく繰り返すしかなかった。録音のクオリティが落ち、いずれ本当に切れる日が来る。

 彼には、チョコを渡せば終了する。私が長居する必要は別段ないのだけれど、彼とは。

 自分が抜けたから即終了するとか、そんな関わり方をしたくなかった。

 ――彼は。

 辛いときに私を助けてくれた。

 こういう温情措置も、変な気を持たせるだけの、後に振り返れば残酷さと弱さでしかない。

 拒む自分を正視できぬ内的な弱さ。それを上っ面の優しさで解消させる、逃げの姿勢。相手の想いを生殺しにする残酷さ。これら一連から卒業する勇気を、一度でも想われたことのある人間は、持たなければならない。

 ……突き放す勇気を和貴は、持っていた。あの子たちにも。それから、


 慰めるだけならいつだってしたげる。


 私にそう言い放ったときにも。


 私は、悪者にはなりきれない。

 無自覚のうちになっている、それが真実だ。


 迷妄の森を漂流し、行き着く先は常に和貴だった。

 私は一度首を振り、両手のあいだの私の知らない世界に、没入した。


「帰るぞ」

 すぐには現実が飲み込めない。そのくらい、没頭していた。左にからだを捻ると、私のコートが手渡された。「ありがと」

「それ、上巻か」

「うん。読んだことあるの」

「前にな」

 連れ立って部屋を出た。またも私たちが最後の退室者だった。途中で図書館員のひとに出くわし、挨拶をした。「外、風強いから気ぃつけてぇなー」

 そのおじさんに言われた通りだった。

 自動ドアでマキが開くなり、強風が舞い込む。

 慌てて身を引き、マフラーの紐を結んだ。

 マキは私の後ろに回り込み、尻尾を結いてくれた。

 その間、私はまぶたを下ろした。たちまちまぶたの裏に残像が流れ始める。「なんか、……いい小説読んでると映像が浮かぶんだよね。……いま生きてる現実が色褪せて見える、境界がぼやけた感じ。私まだ、パートのおばさん気分だよ」

「目覚めさせてやろうか」

 目を開けば、後ろ手を差し出すマキが。

 流石に、それは……。

 言わずともみなまで伝わったらしく、彼は、気まずい素振りも見せず手をポケットに突っ込み、再び強風に対峙した。私は斜め後ろを歩いた。正直に、長身の彼で凌いでる。ごめんマキ。

「教えてやろうか」段の幅の広い階段に差し掛かり、出し抜けに彼は振り向いた。「上下でかなり世界観が変わる。いいか、下巻ではなんと、な……驚きの展開が」

「やだ。それ以上言わないで。これから読むの楽しみにしてるんだから」

 前に戻る背中が、小さな笑いに震える。

 その彼の手が引っ提げるのは不似合いなピンクの大きな紙袋。私の持っている小ぶりなものの三倍はありそうな。

「今年も豊作なんだね」

「玄関先に名前入りで置いてあったんだ……仕方ねえだろ」

 何故だか奮然とあっちを向くマキ。

「あっ」

 なんのために私は来たのか。目的をすっかり忘れていた。

 階段を駆け下り、追いついて彼に手渡した。「遅れてごめん。あのね、……」

「サンキュ」

 胸のポケットに仕舞われた。

 怒りめいたものが取り除かれたのは分かる。

 けども喜びも嬉しさの一片も見当たらない。

 ……こんなことを思うのは筋違いだけれど、せめてこころのなかでは自由にさせて欲しい。

「そんな顔して見んなよ」

 読まれている。

 もういいや、と思い、思ったことを言ってみた。「マキは、……思ったこと本当に顔に出さないよね」

「そうか? 確かめられないから俺には分からないが。他人の反応を通して薄々感づく程度だ」

「出てないよ。羨ましい。……私、分かりやすすぎてやんなっちゃうよ」

「顔にすぐ出すところがおまえは可愛い」

 ……信じられない。

 このひと、にこりともせずにどうしてこんなことが言えるの。

「ほら、それがだ」

 どうして照れる。

 などと浅く笑い、手加減したデコピンをされてしまっては、そのペースに乗せられてしまう。私は顔を背けた。「あ。あのね、好きなことに打ち込むときもそんな感じなの」

「俺が好きなのはおまえだ」

「ワールドカップ見てて思ったんだけど、サッカー選手ってすごくジェスチャーが大きいじゃない。普段落ち着いてるのは分かるんだけど、スポーツしててアドレナリンが出てても、感情爆発させたりしないの? ……味方に点が入ったら喜んだりも」

「しねえ」マキは言葉をかぶせてきた。「味方が喜んでるのを見ると苛つく」

「どうして」

「さっさとポジション戻んねえと、得点直後に失点する率がたけーんだぞサッカーは。端から端まで走るのは俺だ」

 胸ポケットを押さえていた彼が、その場面を思い起こし不快げに眉を歪める。

 人間の感情で最も表出しやすいのは、やはり、怒りか。

 照れ、の類は喜怒哀楽のどれにあたるのだろう。……まずい。

 いまさら額がものすごく熱くなってきた。

「兄貴は喜ぶタイプだがな」前髪を整えるこちらに気づかず空を仰ぐ。オリオン座が遠い冬の空を。顎先から喉仏に繋がるラインが綺麗だった。マキはマフラーをしていない。「味方が点取れば真っ先に駆けつける。おまえの想像するオーバーアクションを取るやつだ」

 樹さんとからだの輪郭が似ている。だが正反対の気質を持つ、この違いは、――

 お母さんのことが、関係しているのだろうか。

「近頃のゴールパフォーマンスはこんなだ」

 左手の薬指に口づけ、そして離す。

「……樹さんって独身だよね」マキはわざわざかばんを左から右に持ち替えた。

「まだ、だ。稜子が上京するのをあいつは待ち望んでいる」

 稜子さんは東京の音大に進学を決めたそうだ。

「それって、――」

 思わず立ち止まった。

 この分かりやすい反応に満足してか、彼は、片目をつぶり、

「そういうことだ。いずれ、な」

 視界のなかに彼が広がる。

 いままで見てきた、弟思いの樹さんに、天真爛漫な稜子さんの姿が重なり、

「――案ずるな。俺は喜んでいる」

「ああっ」

 力任せに押さえつけられていた。「やめて。もー、照れ隠しにひとに当たるのやめてよ」

「兄貴がおまえに会いたいとしきりに言っている。……上京したら、試合観に行くか」

 咄嗟に私は頭の防御に回った。

「……どうした」

「また髪ぐしゃぐしゃにされるのかと思って」

「しねえよ」

 マキは笑った。

「……私がうん、って言ったらどうするつもりだったの」

 観に行かない、って言った場合は指をばきぼき鳴らすだろう彼に訊いてみる。

 赤信号でもおじいさんが来たのでもないのに黒い背中が一時停止をし、

「俺がおまえにしたいことを、あんまり、……言わせるな」

 反射的に口を押さえた。

 振り返らない彼は同じことを考えている。その証拠に、


 帰り道は風の音だけを聴いていた。


「送ってくれてありがとう」

「ああ」

 正面を通り過ぎ脇道から裏手に向かう。

 マキの声が聞こえた。

 彼は、こちら側に歩いてきていた。

 人二人すれ違えるかぎりぎりの道幅。

 私は、後ずさった。

 なおも彼はこちらに踏み込み、


「自分でうまく笑えてると思うか。


 ――なにが、あった」


 から元気も嘘も彼には通用しない。

 薄暗いなかで彼の漆黒の瞳が光っていた。


「強がるなと言っただろが。それとも――俺には言えねえことか。だとしても」


 心、配、御、無、用、だ。


 と漢字の一つ一つを強調して手のひらを突き出す。


「やっぱマキも見てたんだね、『秀吉』。松たか子がすごく可愛かったよね。あのとき確か十九歳で」

「茶化すな。無理矢理吐かさねえと、言わねえのか」

 無理矢理吐かせるってどういう。「そういう、……絶対王政のようなものを求めてないから」

「――和貴か」


 ゆれる。

 私のこころもからだも。


 強い瞳のいろに貫かれ、私は、胸元を押さえた。

 彼を燦然とかがやく太陽に例えるなら、彼は、月のひかり。

 どんな暗闇も暴く威力を放つ。静かで清廉な、――光の輝度自体は強くはないのに、照準をひとたび合わされれば逃れられやしない。


「マキは、……不安になったり、しないの。気持ちを出すように、なってから……」

 表情に表せないなら態度で示す。

 それが彼のやり方だった。

「それ以上に、止まらないんだ」

 距離を詰め意思を持つ手が、伸びてくる。

 私の頭のてっぺんをとらえ、

 さっきとは違う。

 撫でつけるやり方で、


「愛しい気持ちが止まらねえんだ。……こんなのは、初めてだ」


 彼は彼を吐露する。

 その瞳は誰が見てもこころときめかされるものだった。

 ぐらつく私のあり方を揺さぶる。


「すまん」その手が離れる。髪をかき回したりデコピンしたりするのにいまは、率直な感情の吐露を恥じるみたいに、「逆に困らせちまったな。すまん」

 じゃあな、ととってつけたように元の道を辿るマキ。

「おやすみなさい……」

 あの背中にすがりつけば。

 きっと受け止めてくれる。

 けれども――

 長方形に区切られた狭い夜空を見あげた。アンドロメダを救ったペルセウスさながらに、勇敢で、立ち向かうことを知っている。

 裏手の玄関は静かだった。かばんを置き、マフラーを外す。おじいさんと――マキのあったかさが、残っている。

 首元からぬくもりが消える。真っ赤なマフラーを折りたたんだ。

 私の胸のうちに去来するのは、


『僕は、――応えられない』


 午後の六時二十分。


 誰しもがそうであるように、和貴も、マキも――私も、どうしようもならない想いに。自己完結できない想いに身を、焦がすばかりだった。

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