ドラッグ&ドロップ
正しい行いなどと言う気はない。
麻薬の密売人などという生業はいつ、どこで、誰が、どんな経緯で考えても正しい行いであるはずが無い。
それでも彼らは他の生き方を知らなかった。
彼らは一様に不幸だった。
初めてまぶたを開いた時から無明だった世界、そこに差し込む灰色の微光……その無いよりはマシな光に誘われた一本道の先が今の彼らである。
ここでの彼ら、というのは組織の末端に位置する麻薬密売の代行者たちを指す。
大蛇の様な伝言ゲームの末に依頼を言い渡される彼らは依頼人の顔さえ知らず、警備に捕まればすぐに頭数を補充される。
そんな大層都合の良い組織に飼われた野犬の集まりだった。
「くそっ……今月パクられたの何人目よっ!?」
すえた匂いの四畳一間、その際奥からボスらしき女が荒れた声を上げる。
「そんなのいちいち数えて無ぇっスよ……」
「あ、僕……記録つけてますよ」
目に末期的なクマを残した気だるそうな男が無意味な返答をした後ろから僕を一人称とした少女が続ける。
「えっと今月はですね『調教師』と『ワンナイ』が月初に」
「『調教師』!? アイツ古参だろ!? どうしたんだよ」
驚くクマを見て今度はボスが気怠そうにため息をついた。
「裏切りに、あったの。賄賂渡してた麻薬捜査犬にやられたわ……ガブリとね」
「そんなっ……ウソ、だろ?」
「あの、新参の僕としては……麻薬捜査犬を賄賂でどうこう出来ていた今までがウソみたいに聞こえるのですが?」
「お前はまだこの世界を知らないからね……これくらいで驚いてたらキリがないよ?」
「キリがないほどこれ以上があるのですか!?」
自身が堕ちるところまで堕ちたという驚愕と絶望を噛み締めるボクロリを余所に会話は続く。
月1、2人の仲間が居なくなる事は彼らにとってそれほど珍しい事ではなかった。ただし、それは逮捕された者が新人であればに限る。
「中旬なら俺でも覚えてるぜ? 『手品師』だ……」
「あの、ワンナイさん? はどうして捕まったのですか?」
「‥…アホだからだろうな」
「ああ……ワンナイの事は気にするな。度胸だけなら優等生だったんだがな……」
「持ち込み検査の待ち時間が延長されて脇汗かき過ぎたんでしょ? あったのかしら…‥度胸?」
その後、ボスとクマに聞きたいかと問われたボクロリが首を縦に振る事はなかった。
「まぁいい。ワンナイの話しはとにかく、手品師が捕まるのはヤバいだろ……ウチのエースだぜ?」
「ああ……今までとは比較にならないほど、あまりにも……空港の警備体制が厳重すぎるんだ」
彼らを悩ませる目下の課題は麻薬密売の成功率低下だ。
それも今月の成功率低下はあまりにも著しい。主だった原因は乗客1人あたりの検問強化で、入国前に検温など某病原菌対策が加わって出来たスキマ時間が大いに役立てられていた。加えて『調教師』を追い詰めた麻薬捜査犬の新型教育プログラム、出会えば最後とまで恐れられる勘の優れた熟練捜査官も順調に育っている。
対してこちらはエースだった手品師の逮捕。
これにより組織全体の犯罪成功率は致命的に低下していた。
そもそも手品師と呼ばれた男はこの組織でも十年に一人の逸材と呼ばれた天才だった。
著名な手品師の弟子だった彼の技術は物を隠す一点に洗練されており、また他人の荷物にそれを忍ばせる事で容疑を逸らす狡猾さも持ち合わせていた。しかし、そんな彼も『勘』には敵わなかった。手口も証拠もないままに目をつけられ、後天的に逮捕されてしまったのだった。
再度啓発しよう。
麻薬密売ほど愚かな犯罪は無い。麻薬は関わった全てを不幸にする……密売者は無論、購入者も勿論である。
そして今、この組織も不幸の底に至っている。
彼らの密売を前に立ちはだかる無数の壁、中でもあらゆる度胸を粉砕する『強化検問』と匂いを元に追跡する『麻薬捜査犬』……それらをクリアして尚、出会えば終わると言われる究極の壁『勘』の良い熟練捜査官。
エースを欠いた彼らにそれらと渡り合える術は無かった。
高すぎる壁を前に自分達には事に足る程の技術も知恵も無い……誰もがそう思っていた。
その時だった。
彼はアパートの扉を開くと共にこう言い放った。
「なぜ? 知恵や技術が必要だと決めつけるのか?」
開け放たれたアパートの扉から聞こえる渋みの効いた声。
差し込む西日に映し出される鍛えられた肉体、その肉体は何故かアイシールドを着用したアメリカンフットボーラーの衣装をしていた。
…………
某年某月某日の某時間帯、某国際空港に彼は降り立った。
全身をアメリカンフットボーラーの様な衣装で固めた彼を見て、彼が麻薬密売人だと思う者はいるだろうか。
彼はドロップ……そう呼ばれていた。
奇妙奇天烈な数々の密売人が存在するこの裏社会においても異色。麻薬の『密売』という概念をもろともしない彼はこう呼ばれていた……『パワータイプの運び屋』と。
飛行機を降りた彼は入念に身体をほぐした。
30分以上をかけたストレッチを終え、特製のプロテインを摂取する。スパイクシューズの靴ひもを強く結び直し、全身に軽く汗が滲むベストなコンデションをもって彼は歩き出す……その手に握られたアメフトボールの内側には末端価格2000万以上の麻薬がぎっしりと詰まっていた。
頭部には耐衝撃性能に優れたヘルメット。
これには暴漢対策などで一般市民が常備しているスプレー対策にアイシールドが施されており、大袈裟に見えるプロテクター入りの衣装やサポーターもまた彼なりに機能美を追求した結果である。
一見アメリカンフットボーラーそのものの出立ちをした彼の名前はドロップ。
麻薬密売人である。(2回目)
エスカレーターを登ると既にあたりは騒めいている。
ドロップの出立ちを見た一般人が彼を指を差し『何あれ』『有名人かな?』などと思い思いの声を上げる中、彼は冷静に空港に出口を見やった。
道は、遠い。
彼の目前には検問、その周囲には麻薬捜査犬が何匹も巡回している。私服警備員と思われる人間数人、熟練捜査官と思われる動きのキレた捜査官も確認出来た。空港の出口に当たる駐車場はこの難関を突破した先にしか無く、名うての犯罪者たちの如何なる知恵もがこの壁に潰れてきた。
だが……彼にそんな事は関係ない。
「ちょっと君……いいかな?」
警備の1人がドロップに話しかけた。
それが、試合開始の合図だった。
「なっ!? は?」
背中から地面に向かう警備員は自身に起きた事を理解できなかった。
『仕事の時間だ』
そう呟いたドロップは、同時に目前の警備員を突き飛ばし走り出した。
彼の走る先に人はいない。先まで彼に気を向けていた烏合の衆は事体に逸早く反応し、四隅へと逃げていた。
彼らにとってドロップは好奇の対象だった。今の今までは。
それが危険となればその足が早いのはもっともである。そう、突如アメリカンフットボーラーそのものの筋肉塊が走り出したのだ……そんな者は一般人から見れば弾丸や砲弾と同類の危険物である。
一般人とは対照的に捜査員の初動は遅れた。
検問での密売人と捜査員のやり取りは謂わばミステリーである。
トリックを打ち出す怪盗に対して捜査官は名探偵よろしくこれを打ち破る『頭脳戦』だ。釣り人と魚の関係と言っても良いそれは釣り人にとって釣果が得られない事はあっても、魚に食われる可能性など念頭にもない対峙関係である。
その前提を持って職務に当たる彼らの前に突如現れたドロップとの対峙とは何か。
モンスターパニックとの『肉弾戦』である。
如何なる訓練をもってもそのギャップは振れ幅が大き過ぎた。
その間にもドロップは検問を走り抜ける。
助走を終えて最高速度に至った彼に後方から人が追いつく事は極めて困難である。
そう、人であれば困難であるそれも……犬にとっては不可能では無い。
野生を解放した捜査犬がドロップの足に飛びかかった。
現実的には麻薬捜査に特化した捜査犬が戦闘能力を持ち合わせている事は稀ではあるが、それほどの反御都合主義さえもドロップの足を鈍らせる事はない。
「……想定内だ」
捜査犬に足を噛まれて尚、ドロップは涼し気にそう言い放った。
捜査犬の犬歯はドロップのサポーターで食い止められていた。加えてドロップは犬を吹き飛ばすべく直進に用いていた推進力を回転へと置き換える。
突如空港内へトルネードが発生したかと見間違う様な大回転。
その遠心力は野生を解き放った捜査犬を容易に吹き飛ばす自然災害だった。
密売人がすべからく恐れた三大巨壁が二つ『検問』と『捜査犬』が既に突破されていた。
一切の頭脳戦を介さない『ただ走り抜ける麻薬密売人』によって、である。
シンプルイズザベスト……果たしてこれはそういって良いのだろうか。
兎も角、走り抜けるドロップは空港の出口を前にそれを見た。入り口を前に仁王立ちする傷顔の捜査官……ひと目に分かる様な『勘』の良さそうな熟練捜査官である。
「最後の関門か……だが、ゴールを守るには壁が薄い」
ドロップのいう通り、この事態は熟練の捜査官にとっても異例中の異例だった。
他の捜査官が反応に遅れる中、なんとか事態を予想し入り口へと先回りを果たした彼にもこの入り口を守り抜ける自信は無かった。
息を整えて冷静に見る。
後方から詰め寄る警備員が包囲を完成させるまで約40秒……その40秒が余りにも長い。
人混みを地でいく空港警備員に武器の所持はない。
仮に閃光弾程度の許可があったとしてもこの密輸犯にはアイシールドによってこれが満足に通じない。アイシールドをしているという事は、万が一にもこのまま取り逃せば犯人の顔も分からず追跡も難航しかねない。
いや、その程度で済まないだろう。
これほど派手に密輸をされたなどとなれば、世論になんと言われるかと想像するのも恐ろしい。少なくとも、検問の項目にアイシールドが追加される程度では済まないだろう。
「ふざけるなっー!!」
「……真剣勝負だ」
対峙した両者は真反対の言動と共に動いた。
警備員は右腕を伸ばしてドロップに掴みかかるが、彼はこれを腕で弾いて凌いだ。
警備員はドロップに腕を弾かれるが姿勢を崩さない。
元々重心を残していた彼はその衝撃に耐えることが出来た。それは腕を弾かれる事を予期していたからではなく、その初動が牽制だった事が大きな要因となった。
改めて勝利条件を述べる。
密売人であるドロップの勝利条件は麻薬を詰めたアメフトボールを持ち出す事であり、警備員のそれは麻薬の発見と犯人の逮捕である。
「有意は我々にある!!」
「…‥仲間、か」
警備員は考える。
捕まえるだけであれば急ぐ必要はない。包囲の完成まで残り25秒、行動にして多くて2つ。2度の攻防で彼を後ろへと逸らさなければドロップの勝ちの目は潰える。その意味で言えば捕らえる事こそ出来ずも先の攻防は警備員にとって善手だった。加えるなら防御率を上げる次の最善は彼と距離を取るバックステップだと予想する。広い視野で彼の全身を捉え、行動を抑えるのだ。
「ここは……絶対に通さない!!」
「この世に絶対はない……こればかりは、正義にも悪にも等しくだ」
極度の緊張の中、警備員の耳に声援が聞こえた気がした。
駆け寄る警備同僚達の荒い呼吸、足音、その喧騒の全てが『ディーフェンス』『ディーフェンス』と彼の背を押している様に聞こえた。同時に対峙する男、ドロップの背後にただならぬオーラを見た。オーラ、気迫。それがせり上がり、唸りを上げている様な幻覚……『オーフェンス』『オーフェンス』と。
再びエンドラインの攻防。
距離を取った警備員の行動は一見合理的だった。しかし、それは密売人の彼にとっても選択肢の増加を意味した。
ドロップが勝負をかける。
一歩前に踏み出した彼に警備員が反応、しかし警備員の腕は空を切る。ドロップはその警備員が手を伸ばした瞬間を見極め半歩、後ろへとステップを踏んだ……フェイントである。警備員は瞳でドロップを追ったまま前方へと落ちていく。
ドロップはそれを充分に確認してから目を切り、空港の入り口……その先に待つ仲間の車を見た。
堂々たる悪の勝利。
しかし、そう確信するのは少しだけ早い。
正義による執念の抵抗。
ドロップがガクリと膝をつく。その足首を掴んでいたのは先の警備員だった。轟音を立てて地に付した姿のまま、それでも悪を許すまいと伸ばした腕が彼の行手を最後まで阻んで見せたのだ。
正義が勝利を確信する。
彼らの背後に迫る無数の警備員。彼らの包囲は、如何にドロップといえど抗えないだろう約束された勝利である。
もしも……彼らがドロップに残された最後の切り札に気付いていればの話である。
勝利を確信した警備員の包囲の中、ドロップはアメフトボールを地面に置いた。
警備員達はそれを見て安堵する。彼は投降したのだと安堵し、これ以上肝を冷やす様な珍事件は起こらないと胸を撫で下ろした。だが、熟練の警備員である彼だけはそこに違和感を覚えていた。
果たして、これほど威風堂々と犯行を企てた男がそうも簡単に諦めるだろうか。
仮に投降するとして、なぜ彼は今指を立てて周囲を見ているのか。
見覚えのある仕草だ。
ああ、そうだ……あれは風を読む仕草だと気づくと同時に、警備員の中で不吉な予感が線へと繋がり青ざめた。
「まさか……そんな」
アメリカンフットボールの様な衣装。
アメフトボールに空港でのラン……エンドラインでの攻防。
そしてボールを置き、風を読む仕草である。
「ウソだろ……あいつ、あいつまさか!?」
その頃には全員が気づいていた。
包囲の警備員は無論、車内に待機していたボスら3人組も動揺を隠せない。
「何をしている!! 蹴らせるなーーーっ!!」
時すでに遅く、ボールが宙へと旅立つ。
それは見事なステップから芯を捉えた完璧なゴールキックだった。
……
数秒の誤差で取り押さえられるドロップ。
しかし、その手に証拠となる密輸品は無い……このままでは彼の罪状はよくて意欲業務妨害である。
ドロップの確保を終えた頃には当然ながらボールも車も姿を消していた。
「クソっ……やってくれたな!! だが、お前の仲間が捕まれば証拠も出揃うんだ!! これで勝ったと思うな!!」
拘束したドロップを前に熟練の警備員が言った。
だが、ドロップは動揺する事もなく不敵に口元を歪めて言うのだった。
「ああ、そうさ。ゲームはこれからだ……」
空港をフィールドとした戦いはこれにて終幕。
しかしそれは、麻薬が運ばれたこの国というフィールドを舞台とした次のゲームの始まりに過ぎないのだ。




