裏切られたので記憶を奪って路頭に迷わせました
「言いたいことは一度しか言わない。お前は、もうこの家の娘ではない」
父の冷たい声が突き刺さり、凍てついた刃のようだった。
「はぁ、お前のような妹のことなど記憶から消したい。情けなくて恥ずかしい」
兄の嘲るためだけの言葉に唇を噛み締めた。
キュアリスはこの世界で名高い貴族、リシュモン公爵家の末娘として生まれた……はずだったが。何不自由なく、ただ穏やかに暮らしていくのだと信じていたのにすべてが変わったのは、去年の春だ。
魔力を持たず剣の腕もない妹のことを妬んだ兄が、趣味だった古代文献の研究を父に告げ口した。
「あいつは家のお金を使って、役に立たないことにうつつを抜かしている」
などと嘘を並べて。父はろくに話も聞かず叱ったし、母は何も言ってくれなかった。それからだ。存在がこの家から少しずつ消されていったのは。食卓から席がなくなり、家族の行事にも呼ばれずついには自室からも追い出された。
そして今日。旅の荷物一つで公爵家の門の前に立っている。娘を追い出すのはおそらく、全員にコンプレックスがあるのだろう。普通は、どこかへ嫁がせようとするのが当主としての勤めだと思うから。
「……はい、承知いたしました」
震える声で言うのが精一杯。裏切った家族、陥れた兄、笑った貴族社会。みんなこの世界から消し去ろう。
根絶という力を手に入れているからできることはただ消す力ではない。人の生きた痕跡、記憶、存在そのものをゆっくりとこの世界から消滅させる力。
決して泣かなかったのは復讐はもう始まっているから。公爵家の門をくぐり、冷たい石畳の上を歩き出した。コツコツと、靴の音が寂しく響く。
視界にはもう家族の姿はなかった。見送りさえないなんて薄情を通り越してるなと笑うしかない。
公爵家の門をくぐり抜け、そのまま誰にも見つからないよう町の賑わいから離れた細い路地裏へと身を潜めた。石畳の冷たさが薄い靴底を通して足の裏にじんと響き、心まで凍り付かせる手には小さな革の鞄が一つ。
中に入っているのは着古した服と家族に隠れて読み漁っていた古代文献の写し、僅かな銀貨だけ。家から持ち出すことのできた人生の全てだった。こんなに少ない。
ひっそりと物陰から、公爵家の屋敷を見上げると威圧的な石造りの建物は、夕暮れの空に影絵のように浮かび上がっていた。
まるでお化け屋敷。屋敷の二階、兄の部屋の窓に微かに人影が揺れたような気がした。多分ベイス兄さんだろう。
陥れ、公爵家から追放させた張本人であり次期公爵となる男。兄は今頃、惨めな姿で追放されるのを見てさぞ、満足していることだろう。
そう思うと唇の端に乾いた笑みが浮かんだが、心は決して打ちひしがれてはいなかった。
絶望の淵で一つの力に目覚めた、世界の理すら覆す異能。根絶と名付けた、対象の存在を世界から消滅させる力。
存在そのものを砂漠の砂が風に吹かれて消えるように、ゆっくりと消滅させる。一度発動すれば効果は時間とともに浸食していく。
鞄を抱え直し、静かに目を閉じると意識を集中させ、遠く離れた屋敷の中にいる兄の存在を捉える。
「根絶」
心の奥底で呪文を唱えると、身体から透明な波紋のような力が静かに放たれ公爵家の屋敷へと向かっていった。
兄を支える最初の柱、それは名声。幼い頃から、剣の腕前とカリスマ性で多くの人々を魅了してきた。
武術大会での優勝、社交界での人気。彼の存在は常に光り輝いていた。輝きが今この瞬間から少しずつ陰っていくとにやりと笑う。
数週間後、身分を隠して町の酒場で働いていた。疲労困憊の身体で耳を澄ます。
「最近、ベイス様の話、聞かないな」
「ああ。なんでも、武術大会の優勝は実は八百長だったとか」
「八百長?そんな話、あったか?」
なぜ彼をそう思うのか、その理由を語らない。ただ「そうだった気がする」「昔からそうだった」と漠然とした悪評が広がっていく。
兄の輝かしい栄光が最初から存在しなかったかのように、人の記憶から消え去っていく。兄の根底を支えていた名声という砂が、サラサラと崩れていく。
手の中のグラスには埃をかぶった安酒が注がれていた。苦い。心は冷たい復讐の始まりに満足を感じていた。これはまだ始まりに過ぎない。兄を支える柱を一つずつ、ゆっくりとへし折っていく。
やがて兄は名声も財産も全てを失い、最後には誰からも忘れ去られ自分自身すら何者なのか分からなくなるだろうそれが、裏切った者たちへの偽りのない絶望。復讐は今始まったばかりだ。
名声が崩れ去るにはそう時間はかからなかった。もとより、名声は父親の権力によって誇張された部分が大きかったので、虚飾が剥がれ落ちていく様は見ていて実に滑稽。
褒め称えていた理由も今や誰も覚えていない。ただ単に「なんか、すごかったらしい」という曖昧な記憶だけが残り、やがて嘲笑へと変わっていく。兄は自分がどうしてこうなったのか、理解できない様子だった。
ある日、たまたま通りかかった貴族街で見慣れた馬車が止まっているのを見かける。兄の馬車だ。どうやら、社交界に出向いたらしい。物陰から様子をじっと観察した。
兄が馬車を降りると、周りの令嬢や貴公子たちは避けるように目を逸らした。取り囲んでいたはずの華やかな人の輪は存在しないかのように、兄の周りだけぽっかりと穴が空いている。
ふっ、と笑った。
「おい、ベイス。君はいつからそんなに落ちぶれたんだ?」
兄と親しかったはずの貴公子が、わざとらしく大きな声で言ったら兄は顔を真っ赤にして反論しようとするが、言葉が出てこない。
根絶の力はすでに兄の友人関係を侵食し始める。彼らはなぜ兄を罵るのか、理由をはっきりと知っているわけではない。
「なんとなく、あいつはああいうやつだ」
という漠然とした悪意が彼らを動かしている。兄が馬車へとすごすごと戻っていった背中には威厳など欠片も残っていなかった。
「まだまだ」
夜、貧しい宿屋の一室で古い地図を広げる。
「ここがよさそう」
次のターゲットは父。父が持つ最も大きな力、それは財力。国内外に多くの商会を持ち、公爵家を支えていた財力こそが権力の源であり、追放する決め手となったのだ。地図の上に広がる商会の拠点を一つ一つ指差していく。
「まずは国外の商会から。そうすれば、私を追い出したがために海外との重要な取引を失ったと知ることになるかな」
再び目を閉じ、意識を集中させた。根絶の力が静かに貪欲に父の商会の存在を蝕んでいく。世界のすべてを恨んでいるわけではない。
裏切った者たちだけはこの世界から、跡形もなく消え去るべきだ。
明日、父は自身の財力が少しずつ失われていくことに気づき始めるだろう。笑った。様子を見に行こう。噂に耳を傾けに。
当主の男が異変に気づくのに時間はかからなかった。翌日の朝、父は書斎で顔を真っ赤にして叫んでいたという。
使用人たちが怯えながら話すのを町の宿屋の隅で耳にした。どうやら、国外にある最大の商会が突如としてすべての取引を失い、消滅してしまったらしい。
「あり得ない!昨日まで順調だったはずだぁあ!」
机を叩きつけ、書類をまき散らしながら怒鳴ったそうだ。ぷっ、と笑う。最高だ。父には理解できない。なぜなら、商会の存在そのものがこの世界からゆっくりと消え始めているのだから。
取引先の帳簿から社員の記憶まで、世界の歴史の記録からも。根絶の力は一度発動すれば誰にも止めることはできないので、その日を境にリシュモン公爵家を取り巻く状況は、目に見えて悪化していった。
国外の商会を失ったことで莫大な利益が途絶え、貴族社会での発言力も弱まっていく。兄のベイスはすでに社交界から孤立し周りには誰もいなくなり、友人たちは彼を嘲笑し道化のように扱う。
兄は自らの立場がなぜこうなったのか、理由が分からず酒に溺れていくばかり。
公爵家は栄華を失い静かに崩壊の道を辿り始めた中、一方のこちらは町の小さな古物商で古めかしい地図を眺めている。地図には、世界の主要な貿易ルートや公爵家が所有する領地の情報が記されている。
「次は、ここと……それから、あそこ」
指先で地図上のいくつかの場所に印をつけたのは、公爵家が所有する鉱山や貴重な特産物が採れる村。公爵家の財力のもう一つの柱。一つずつ、根絶の力でこの世界から消し去っていく。
鉱山に住む労働者の記憶から鉱山の存在を消し、村に住む人の歴史から公爵家との関わりを消せば、公爵家が所有していたはずの富は最初から存在しなかったかのように、世界から跡形もなく消え去るだろう。
ただの破壊ではない。築き上げてきた全てを、夢であったかのように手の届かないところへ消し去る。
復讐劇は今、クライマックスへと向かい、公爵家が所有していた鉱山や村が人の記憶から消え去るのには時間はかからなかった。
公爵家は栄華を支えていた財力のすべてを失い、父は毎日のように書斎で怒鳴り散らし、怒りの矛先は叱責したことすら覚えていない、兄のベイスへと向かう。
「お前が、お前が余計なことをしなければ……!」
父の叫びが屋敷中に響き渡る。
「父上がぁああ。悪いんですよおお」
ベイスはすでに正気を保っていなかった。
「な、なんだと?」
名声も友人もすべてを失った彼は、酒と悪夢に溺れる日々を送っていた。
「はははは、ははは!」
「父親に向かって笑うな!」
なぜ自分だけがこんな目に遭うのか理解できず、狂気に蝕まれていく公爵家は外側だけでなく、内側からも静かに崩壊していった。
町の小さな宿屋の食堂で一人の女性の噂を耳にする。
「聞いたかい?リシュモン公爵夫人のこと」
「ああ。なんでも、最近おかしくなったらしいな」
「自分に娘がいた、とか言い出してさ。でも、公爵家に娘なんていないだろ?」
それは母についての噂。根絶の力が母の存在にも静かに浸食し始めていたのだ。母の記憶から娘の存在が消え、同時に存在を証明するものがすべて消えていく痕跡を探すように、屋敷中をさまよっていたという。
「ここに娘の描いた絵があったはずなのよ」
「この部屋は、あの子の部屋だったわ」
しかし、使用人たちは首を傾げるばかり。母が差し出す娘との思い出は誰の目にも見えない幻。自分の記憶が作り上げた幻を追い求め、徐々に精神を病んでいく。
心は追放されたときと似た、深い孤独に囚われていた。宿屋の窓から見える夕焼けを眺め、あの日の夕暮れもこんな色だったと黄昏る。
家族に裏切られ、一人きりになったのを空だけが見ていた。裏切った家族が一人ずつ、同じ孤独と絶望を味わっている。
彼らの手の届かないところへ消し去るのだ。裏切った者たちへの偽りのない絶望に胸がスッキリしていく。
公爵家は名を保つことすら困難になっていた。父は狂気に囚われ、母は幻影を追い、兄は酒に溺れて廃人同然の生活を送っている。
皆、自分たちがなぜこんな目に遭っているのか理解できず、絶望の淵をさまよっていた。町の片隅にある小さなパン屋で働きながら静かに公爵家の崩壊を見守る。
ある日、店に顔色の悪い老紳士がやってきた時に彼は、父の右腕として公爵家を支えていた男だったと思い出す。辛気臭い。
「リシュモン公爵家は、もう終わりだ」
彼は呟き、パンを一つだけ買って帰っていった。
「なにか呟いたけど、何が言いたかったんだろう?私に終わりと言って、なんとかしてくれって意味?空っぽのものをどうやって増やすっていうの?相変わらず他力本願だったなぁ」
老紳士の言葉を聞きながら、冷たいパン生地を捏ねていた。
最後の標的に向かう時が来る。追放する直接的な引き金となった公爵家そのもの。
裏切った家族がいた場所、それが公爵家、その存在が苦しめた全ての始まりだ。太陽が眠りに落ち闇が深まった頃、公爵家が見える丘の上に立つ。満月が瓦礫のようになった屋敷を不気味に照らし出している。目を閉じ、全ての力を解放した。
「根絶」
身体からこれまでにないほどの強大な力が放たれ、公爵家の屋敷へと向かっていった。
建物の存在そのものをこの世界から消し去る力。屋敷は音もなく、光もなく最初からそこに存在しなかったかのように消えていき、公爵家の領地は空き地になった。朝、町の人々は不思議に思う。
「ここに、何があった?」
誰もその答えを知らず、彼らの記憶からリシュモン公爵家という存在が消え去ったのだ。父も、母も、兄も、自身も。
女が何者だったのか、どこにいたのか。その全てが世界から消えていく。空っぽになった心でただ一人、そこに立っていた。復讐は終わったと息を吐く。でも、残されたものは何もない。復讐劇はこうして終わりを迎えた。
リシュモン公爵家が消え去った後、キュアリスという名前すら捨て縛りつけるものは何もない。ただのキュアリスとしてパン屋で働き続けていたが、心は空っぽ。焼きたてのパンの匂いとお客さんの笑顔が空虚な心を少しだけ、満たしてくれた。
そんなある日、店に一人の青年がやってたが見覚えのない青年で、金色の髪と空のような青い瞳を持っている。瞳は心の奥底を見透かすかのように、真っ直ぐに見た。
「このパンを、一つください」
見つめていることに気づいていないかのように穏やかな声で言う。少し戸惑いながらも、焼きたてのパンを差し出した。指先が指先に一瞬だけ触れる瞬間、心にこれまで感じたことのない微かな温かさが広がる。
パンを受け取ると店の窓から見える空き地、公爵家があった場所をじっと見つめていた。
「不思議なものだ。この街には、リシュモン公爵家という名家があったはずなのだが……うーん」
独り言のように呟いた内容に心臓がドクリと大きく鳴った。彼から目を逸らし、冷たい声で言う。
「さあ、私は知りません」
何も言わずただ微笑んだ。微笑みは、とても優しく冷え切った心を少しだけ温めて、それから毎日パンを買いに来るようになった。
彼は自分のことをカオシュと名乗る。毎日たわいもない話をした。町の噂話、パンの美味しい食べ方、空に浮かぶ二つの太陽のこと。
話していると少しずつ心が軽くなっていくのを感じた。過去を知らないので一人の人間として、接してくれていた。ある日、カオシュは言う。
「君と話していると心が安らぐ。まるで、ずっと探し求めていた場所にたどり着いたようだな」
何も言えなかった。今まで感じたことのないほんのりとした甘さが広がる。復讐を終えた心に、新たな感情が芽生え始めていたそれは決して消えることのない温かい想い。彼のことを知らなくても、優しいとは思う。
こくりと頷き、同じ気持ちだということを伝えた。
⭐︎の評価をしていただければ幸いです。記憶を無くさせるの最強ですよね




