第3話 キャパシティ・オーバー
「さあ、行こ行こ! りっちゃん先輩!」
葉野佳蓮ちゃんに腕を引かれるまま、私はほとんど抵抗できずに廊下を歩いていた。
向かう先は、女子寮の共同浴場。
私の脳内では、「危険」「逃走」「不可」という警告アラートが、けたたましく鳴り響いている。
「あ、そうだ! タオルとか、着替えとか!」
「大丈夫! 部屋に取りに戻ろっか!」
佳蓮ちゃんは悪意なく笑う。
その笑顔が眩しすぎて、私の思考回路は焼き切れ寸前だった。
部屋に戻り、私は震える手でクローゼットからタオルと着替えを取り出す。ースの縁取りがついた、清潔な下着。これを、これから人前で身に着けたり、脱いだりしなければならない。
正気か? いや、正気でいられるわけがない。
俺は男だぞ。海堂院律己だ。
いくら《アルテミス》で身体と感覚が女性化していても、中身は17歳の男子高校生なんだ。
女子の裸が満載の空間に、自ら飛び込むなんて。
それは、もはやミッションではなく、拷問だ。
「りっちゃん先輩、顔色悪いよ? もしかして、のぼせやすいタイプ?」
「あ、う、うん……そうかも。ちょっと、人より……」
「じゃあ、あんまり長湯はしないようにしよっか!」
違う。そうじゃない。
問題は湯加減ではなく、私の精神的なキャパシティだ。
観念して、佳蓮ちゃんの後について脱衣所へと向かう。
カゴが並んだ棚、大きな鏡、そして、ここにも満ちている甘い香り。すでに数人の生徒がいて、髪を乾かしたり、クリームを塗ったりしている。彼女たちは私と佳蓮ちゃんに気づくと、「こんばんはー」と気さくに声をかけてきた。
ここは日常。彼女たちにとっては当たり前の光景。
私にとっては、地雷原のど真ん中。
「じゃ、脱ごっか!」
佳蓮ちゃんはそう言うと、何のてらいもなく、さっとブラウスを脱ぎ始めた。
健康的な肌と、華奢な下着姿が露わになる。
「…………っ!」
私は咄嗟に視線を逸らし、自分のロッカーへと向き直った。
心臓が、肋骨を叩き割るんじゃないかというくらい激しく脈打っている。顔に、全身の血液が集まってくるのがわかる。
落ち着け、海堂院律己。
お前は「海堂院律花」。ここで挙動不審な態度をとれば、即、怪しまれる。
深呼吸だ。そうだ、深琴に教わった瞑想法を……。
「りっちゃん先輩、どうしたの? もしかして、恥ずかしいの?」
背後から、佳蓮ちゃんの声。
いつの間にか全裸になった彼女が、不思議そうに私を覗き込んでいた。
「ひゃっ!?」
情けない悲鳴が漏れた。
私は慌てて後ずさり、壁に背中を叩きつける。
「か、佳蓮ちゃん……ち、近い……」
「えー? だって、りっちゃん先輩が脱がないから。もしかして、背中のファスナー、手伝おうか?」
「だ、大丈夫! 自分でできるから!」
もう限界だった。
キャパシティ・オーバーだ。
これ以上この空間にいれば、私は羞恥心で爆発四散してしまう。
「ご、ごめんなさい! 佳蓮ちゃん!」
私は、ほとんど絶叫するように言った。
「やっぱり、私……今日は部屋のシャワーで済ませることにする! ちょっと、長旅で疲れちゃったみたいで……!」
「え、そうなの?」
「うん! ごめんね、せっかく誘ってくれたのに!」
そう言うと、私は脱ぎかけた制服を慌てて元に戻し、タオルと着替えをひっつかんで脱衣所から逃げ出した。
背後で佳蓮ちゃんが「りっちゃーん先輩ー?」と呼ぶ声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
自分の部屋に転がり込み、バタンとドアを閉める。
そのままドアに背を預け、ずるずるとその場にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……っ」
荒い呼吸を繰り返す。
全身から、どっと汗が噴き出していた。
視界の端で、ARウィンドウが警告メッセージを点滅させている。
【心拍数上昇:150bpm】
【ストレス指数:92%(危険域)】
【推奨:速やかな鎮静行動】
「……無理だ」
か細い声が、自分の口から漏れた。
「こんなの、無理に決まってる……」
女子校に潜入する。姉の死の真相を突き止める。
その覚悟は、決めていたはずだった。
だが、現実は想像を遥かに超えて過酷だ。
戦闘やハッキングなら、いくらでもやってのける自信がある。
だが、これは違う。
ここは、戦場ではない。むき出しの日常が、私の精神を少しずつ削っていく。
ベッドに突っ伏し、顔を枕にうずめる。
詩織さんのものだという枕カバーから、ふわりと柔軟剤の優しい香りがした。
それは、幼い頃、彼女に抱きしめられた時に感じた香りによく似ていた。
『律己くんは、強くて優しい子だね』
脳裏に、詩織さんの声が蘇る。
そうだ。私は、強くならなければ。
姉さんと、詩織さんのために。
顔を上げ、私はぎゅっと拳を握りしめた。
まだ、初日だ。ここで心が折れるわけにはいかない。
まずは、この身体に慣れること。
そして、この「女の園」の空気に、慣れること。
それが、私の最初のミッションだ。
――たとえ、その先にどれだけの羞恥と困難が待ち受けていようとも。