第2話 女の園と甘い香り
鳳翼女学院の女子寮「白百合寮」の前に立った私は、思わず息を呑んだ。
白亜の壁に蔦が絡まる、まるで西洋の城のような美しい建物。ここが、これから私の、いや「律花」の生活拠点となる場所だ。
一歩足を踏み入れると、ふわりと甘い香りに包まれた。
シャンプーや化粧品、柔軟剤、そして微かな汗の匂い。それらが混じり合った、女性特有の生活臭。男である俺にとっては未知の香りが、この空間のすべてを支配していた。
深琴の話によれば、《アルテミス》は身体を女性化するだけでなく、男性ホルモンの分泌を一時的に抑制する機能もあるらしい。だからこそ、この強烈な「女の園」の香りに、俺はむせ返ることもなく立っていられる。
逆に言えば、効果が切れた時が怖い。急激なホルモン・リバウンドと共に、この甘い香りが俺の精神をどう揺さぶるのか、想像もつかなかった。
「あの、あなたが今日から入寮する、海堂院律花さん?」
声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。
振り返ると、優しそうな笑顔を浮かべた寮母さんが立っていた。
「は、はい! そうです! よろしくお願いします!」
裏返りそうになる声を必死に抑え、私は練習通りに、深々と頭を下げた。スカートの裾がふわりと揺れる感覚に、まだ慣れない。
「あなたの部屋は203号室よ。相部屋だけど、いい子だから安心してね」
案内された部屋のドアを開ける。
そこは、決して広くはないが清潔で、窓から差し込む西日が部屋を暖かく照らしていた。部屋は中央に置かれた大きな本棚兼パーティションで左右に区切られている。プライベートは最低限確保されているようだ。
私が使うのは、窓際の右側スペース。
すでに運び込まれていた私の荷物――いくつかの段ボール箱を見て、私は少しだけ安堵した。
この潜入にあたり、ボロが出ないよう、持ち物はすべて女性ものを用意した。それも、ただの新品ではない。
深琴がその天才的なハッキング能力を駆使し、「橘詩織さんの遺品」として学園に保管されていた彼女の私物を、私の荷物として取り寄せたのだ。
使い込まれた参考書、少し色褪せたポーチ、キャラクターもののマグカップ。それらは、これから私が演じる「海堂院律花」という架空の人物に、確かなリアリティを与えてくれるはずだ。
「わあ、あなたが新しいルームメイト? よろしくね!」
背後から、太陽のように明るい声がした。
振り返ると、淡い栗色のツインテールを揺らし、大きな瞳をきらきらさせた小柄な少女が立っていた。パーティションの向こう側の住人らしい。
「私、葉野佳蓮! 高等部1年だよ。先輩だよね? なんて呼べばいいかな?」
「あ、えっと……海堂院、律花です。高等部2年です。り、律花で……いいです」
「りっちゃん先輩! 決定! よろしくね、りっちゃん先輩!」
ぐい、と距離を詰められ、佳蓮ちゃんは私の手を両手で握りしめた。柔らかく、小さな手。その屈託のない笑顔とスキンシップに、私の心臓がドクンと大きく跳ねる。
近い、近い近い!
「荷解き、手伝うよ! あ、これ、スキンケア用品? りっちゃん先輩、どこの使ってるの?」
佳蓮ちゃんは、私が段ボールから取り出した化粧水や乳液のボトルを興味深そうに覗き込む。
これも、詩織さんの愛用品だ。潜入前に、深琴から「最低限のスキンケア手順と知識」は叩き込まれている。女性の肌は男性よりデリケートで、保湿が何より重要だ、とか。
「えっと、これは……肌に優しいって聞いたから……」
「へぇー! 今度貸してね! あ、こっちは着替えかな?」
佳蓮ちゃんが、ひょいと別の箱から取り出したのは、畳まれた下着だった。
詩織さんが使っていた、淡いピンク色のブラジャーとショーツ。そこまでホンモノである必要はない気がするし、私が使うのは色々問題がある気がしたのだが天才の考えることはよくわからない。
「わ、かわいいデザイン! りっちゃん先輩、オシャレだね!」
「あ、あわわわわ!」
私は悲鳴のような声を上げ、慌てて彼女の手から下着をひったくった。その勢いで、バランスを崩してベッドに尻もちをつく。
「きゃっ、ご、ごめん! 私、つい……」
「い、いえ、こちらこそ、ごめんなさい! ちょっと、びっくりしちゃって……」
しまった。今の反応は不自然だったかもしれない。
女子校では、これくらいのことで驚くのは「ウブすぎる」と思われてしまう。
だが、佳蓮ちゃんは気にした様子もなく、にぱっと笑った。
「りっちゃん先輩って、なんだかお嬢様みたいで可愛いね! 守ってあげたくなっちゃう!」
「え……?」
「よし、私がこの白百合寮のルール、全部教えてあげる! まずは共同浴場に行こっか! 汗かいたでしょ?」
「い、今から!?」
共同浴場。
その言葉に、私の思考は完全にフリーズした。
旧視聴覚室で、たった一枚のショーツ姿を深琴に見られただけでもあれほど動揺したというのに。
これから、この無邪気な後輩と、裸の付き合いをしなければならないというのか。
「大丈夫だよ、りっちゃん先輩! 私が背中流してあげる!」
佳蓮ちゃんは私の腕をぐいと引き、部屋の外へと連れ出そうとする。
その無防備な笑顔が、今は悪魔の笑みに見えた。
――潜入、初日。
早くも、私は最大のピンチを迎えていた。
《アルテミス》のタイマーは、まだ10時間以上も残っている。