第八話:聖女の断罪、消えない憎悪
床に転がる獅子堂は、もはや誰の目にも王とは映らなかった。3800万の値札をつけられた、生きた残骸だ。ラウンジに満ちるのは、死体処理を待つ霊安室のような、冷え切った沈黙。誰もが次の指名を恐れ、互いの顔色を盗み見ている。その中で、ただ一人、まるで教会のミサにでも参加しているかのように、背筋を伸ばしている女がいた。
三上弥生。
蒐集家の声が響くより先に、彼女はすっと立ち上がった。その動きには、一切の淀みがない。 「次は、私でしょう?」 凛、とした声が、沈黙を切り裂いた。それは問いかけではなく、確認だ。自分が選ばれることを、彼女は疑ってもいなかった。むしろ、この瞬間をこそ、待ち望んでいた。 蒐集家は、楽しげに喉を鳴らした。 『ほう。自ら祭壇へ登るとは。いいだろう、三上弥生。君のその瞳の奥で燃えるものが何か、我々も興味があったところだ』
彼女は、黒曜石のテーブルへ歩み寄る。その足音は、ハイヒールが床を叩く、冷たく、規則正しいリズムを刻んだ。まるで、誰かの破滅へのカウントダウンのように。 彼女がテーブルに触れる。 だが、映し出された光景は、俺たちの予想を裏切るものだった。
――そこは、陽光あふれる、高校の美術室だった。 イーゼルが並び、油絵の具の匂いが立ち込める。壁には、瑞々しい感性で描かれたであろう作品の数々。その中心で、一人の少女が、キャンバスに向かっていた。 若き日の、三上弥生。 今の彼女からは想像もつかないほど、その表情は柔らかく、希望に満ちている。彼女の描く絵は、コンクールで金賞を取ったという、光に満ちた風景画だった。 『弥生、すごいや! やっぱり天才だよ!』 隣で、親友らしき少女が、屈託なく笑う。その笑顔は、あまりに眩しく、そして、それ故に、これから起こる悲劇のコントラストを際立たせた。
この幸福な記憶が、絶望の序章? 誰もが、そう思った瞬間だった。
映像が、乱れる。ノイズが走り、音が歪む。 次の瞬間、世界は反転していた。 同じ美術室。だが、今はもう陽の光はない。割れた窓から、冷たい夜風が吹き込んでいる。 床には、無残に引き裂かれ、泥水で汚された風景画。彼女の希望そのものだったキャンバスが、踏みつけられている。 そして、その中央に、彼女はいた。 制服は乱れ、髪はぐっしょりと濡れている。彼女の周りを、数人の生徒が取り囲んでいた。その中には、さっきまで彼女を「天才」と呼んでいた、あの親友の顔もあった。 その顔は、もう笑っていない。ただ、歪んだ優越感と、冷たい侮蔑を浮かべて、彼女を見下している。
『――何で…?』 三上の声が、震えていた。 『アンタばっかり、ずるいじゃない』 親友だった少女が、吐き捨てる。 『先生にチヤホヤされて、才能があるって言われて。私たちみたいな凡人の気持ち、アンタに分かる?』 それは、嫉妬という名の、最も醜く、ありふれた悪意。 だが、それは序の口に過ぎなかった。 リーダー格の男子生徒が、一歩前に出る。その手には、カッターナイフが、鈍い光を放っていた。 『お前のその“手”が、気に食わなかったんだよな』 悲鳴。 映像は、直接的な瞬間を映しはしなかった。だが、俺たち全員の脳裏に、その光景は焼き付いた。 美しいものを生み出すはずだった彼女の右手に、刻みつけられる、消えない傷。才能への嫉妬が、その未来ごと、物理的に破壊する瞬間。 傍観者たちの、見て見ぬふりをする目。 加害者の、歪んだ満足に満ちた顔。 そして、親友だった少女が最後に放った、決定的な一言。 『これで、アンタも“普通”になれて、よかったじゃない』
それが、三上弥生の“最初の絶望”。 世界からの、悪意に満ちた死刑宣告だった。
映像が消えたラウンジは、もはや沈黙さえ失っていた。誰もが呼吸を忘れていた。 鬼頭の絶望は、悲劇だった。獅子堂のそれは、滑稽ですらあった。 だが、これは違う。 純粋な悪意。理不尽な暴力。聖なるものが、汚物によって穢される瞬間。 それは、魂が最も根源的に恐怖する光景だった。
『……素晴らしい』 蒐集家の声が、初めて、感嘆の色を帯びていた。 『これは……極上だ。純粋な憎悪。聖女が、復讐の悪魔へと堕ちる、その原点!』 競りのモニターに、火がついたように数字が灯る。 獅子堂の3800万など、まるで子供の小遣いだ。 5000万、7000万、1億――。 値は、狂ったように吊り上がっていく。それはもう、記憶への対価ではない。彼女の魂に宿る、その巨大な負のエネルギーそのものへの、畏怖と渇望だった。 最終的な落札価格は、モニターがカンストしたのか、あるいはシステムが追いつかなかったのか、『測定不能』と表示された。
三上は、顔を上げていた。 彼女は、鬼頭のように抜け殻になることも、獅子堂のように崩れ落ちることもなかった。 記憶を売ったはずなのに。 その瞳の奥の憎悪の熾火は、消えるどころか、むしろ、不純物を取り除かれた純粋な炎のように、より一層、静かに、そして激しく燃え盛っていた。 そうか。俺は、ようやく理解した。 彼女は、絶望の記憶を売り払ったんじゃない。 記憶という名の“枷”を外したのだ。 悲しみや、苦しみ、後悔といった、憎悪にまとわりつく感傷的な記憶を、金に換えて捨てた。 そして、彼女の魂には、ただ一つだけが残った。 誰に、何をされたのか。その事実だけを核とした、純度100%の、殺意にも似た『憎悪』そのものが。
彼女がこのゲームに来た目的は、金じゃない。 この、蒐集家という絶対的な権力、そして参加者という駒が揃った、閉鎖された空間。 彼女にとって、ここは、復讐を果たすための、最高の舞台なのだ。
三上弥生は、ゆっくりと俺に視線を戻した。 その瞳は、もう俺を試すような色をしていなかった。 ただ、静かに告げていた。 「私の地獄は、ここから始まる」と。
靴の中の小石が、急に、ひどくちっぽけで、生ぬるいものに感じられた。 俺が演じてきた道化の仮面も、嘘で固めた物語も、彼女の、あの本物の地獄の前では、あまりに薄っぺらく、無力だった。 この女は、敵だ。 神楽坂怜とは違う。理解も、取引も通用しない。 このゲームのルールそのものを、内側から破壊しかねない、本物の爆弾だ。 地獄の第二幕は、今、本当の意味で、幕を開けたのかもしれない。