第七話:裸の王様と、泥の味
鬼頭だったモノが、そこにあった。 抜け殻、という陳腐な言葉では足りない。魂を根こそぎ抜き取られ、ただ人の形を保っているだけの肉塊。虚ろな瞳は、もはやこの世界の何物も映してはいなかった。750万円という値札をつけられた彼の絶望は、彼自身よりも、今はギャラリーの陳列棚で高尚な美術品のように鎮座しているのだろう。
ラウンジの空気は、粘り気を増していた。他人の魂が競りにかけられる様を強制的に見せられるのは、さながら自分自身の精神を少しずつ解剖されるような、じっとりとした不快感を伴う。誰もが、次は自分の番かと、喉の奥に冷たい鉄球を詰まらせていた。
その沈黙は、悪趣味な演出家によって破られる。
『では、次は――場の空気を華やかにしていただこうか』 蒐集家の声が、ねっとりと、しかしどこか弾むような響きで、一人の男を指し示した。 『“勝者”であり、“光の物語”の語り部。獅子堂剛君、君の出番だ』
来たか。 俺の予想通り、そして、おそらくここにいる全員の期待通り。 獅子堂の肩が、ワイヤーで吊られた人形のように、不自然に跳ねた。顔から血の気が引き、乾いた唇がわななく。 「わ、私……だと……?」 「光の物語の対極にあるもの。それこそ、我々が最も好む味だからな」 蒐集家の声は、有無を言わさなかった。 「さあ、見せてくれ。君がその輝かしい玉座に辿り着く前に、どんな泥を啜り、どんな屈辱を味わったのかを」
獅子堂は、必死に虚勢を張ろうとした。ジャケットの襟を正し、こわばった頬の筋肉を無理やり持ち上げて、笑みのようなものを形作る。 「ふ、ふん……いいだろう。私の絶望は、むしろ諸君らのそれとは次元が違う。成功者ならではの、高尚な苦悩というものを見せてやろうじゃないか!」
だが、その言葉とは裏腹に、黒曜石のテーブルに向かう彼の足取りは、まるで断頭台へ向かう罪人のように重かった。彼がテーブルに手を触れた瞬間、その強がりは、脆いガラス細工のように粉々に砕け散った。
黒い霧が、再びラウンジを満たす。 しかし、そこに映し出されたのは、成功者の苦悩などではなかった。
――土砂降りの夜。場末のスナックの、安物のソファ。 そこにいたのは、今の獅子堂からは想像もつかない、痩せこけ、覇気のない、みすぼらしい男だった。今の半分の体躯しかない若き日の獅子堂が、脂ぎった顔の中年男の前で、額を床にこすりつけていた。 土下座だ。 完璧な、プライドのかけらもない、惨めな土下座だった。
『お願いします! 村田社長! この通りです! もう一度だけ、チャンスを……!』 若き獅子堂の声は、雨音に消え入りそうなほどか細く、震えている。 『うるせえな、獅子堂。お前みたいな夢ばっか語る口だけ野郎に、もう貸す金はねえんだよ』 村田と呼ばれた男は、足元で這いつくばる獅子堂の頭を、汚れた靴先でグリグリと踏みにじった。 『お前の理想だか何だか知らねえが、それで何人の人間が路頭に迷った? ああ? 答えろよ』 『申し訳…ありません…』 『なあ、教えてやるよ。お前は王様じゃねえ。誰かに寄生しなきゃ生きていけねえ、ただの害虫なんだよ』
害虫。その言葉が、若き獅子堂の魂に、焼印のように刻まれたのが分かった。 彼は、何も言い返せない。ただ、床にこぼれた酒と、自分の涙と、屈辱が混じり合った泥の味を、噛みしめるだけ。
映像は、そこで途切れた。 ラウンジは、静まり返っていた。だが、それは鬼頭の時のような重苦しい沈黙とは違う。もっと悪意に満ちた、嘲笑を必死に押し殺す、薄氷のような静寂だった。 何人かの口元が、ひくひくと歪んでいるのが見えた。第一の審判で、彼を「王」と崇め、媚びへつらっていた者たちだ。手のひらを返す準備は、もうできている。
獅子堂は、テーブルに手をついたまま、がくがくと膝を震わせていた。顔を上げられない。ラウンジの床に、あの日のスナックの床を、見ているのかもしれない。 「あれが……王様の原風景、ね」 隣で、神楽坂怜が、温度のない声で呟いた。 「過剰なまでの成功への執着と、他者を見下す傲慢さ。その根源は、極度のコンプレックス。害虫と呼ばれた男が、自分を王だと信じ込ませるために、必死で積み上げた砂の城。実に分かりやすい構造だわ」 彼女は、もう獅子堂という人間を、完全に解体し、分析し終えていた。
計画通り、獅子堂の弱点は、俺の想像以上に脆く、そして根深い。 だが、俺は笑えなかった。 あの、若き獅子堂の瞳。あの絶望の淵で、それでも何かを渇望していた、飢えた狼のような目。 あれは、俺が、鏡の中で何度も見たことのある目だったからだ。
靴の中の小石が、存在を主張するように、神経を刺した。
『――素晴らしい!』 蒐集家の声が、愉悦に震えていた。 『光を渇望する者が見る闇! 王を気取る男の、虫けらだった過去! これだ、これだよ! このギャップこそが、絶望を至高の逸品へと昇華させるのだ!』 競りが始まった。 開始価格は、いきなり500万。 鬼頭の時とは比べ物にならない速度で、値が跳ね上がっていく。 1000万、1500万、2000万――。 獅子堂のプライドが、彼の魂が、衆人環視の中で、デジタル数字に変換され、値付けされていく。 最終的に、その記憶は『3800万』という、破格の値で落札された。
『おめでとう、獅子堂君! 君の絶望は、実に価値あるものだった!』
声が響くと同時に、獅子堂の身体が、まるで糸の切れた操り人形のように、床に崩れ落ちた。鬼頭のように意識を失うことはなかったが、その方が、より残酷かもしれなかった。 彼は、勝者の饗宴で俺たちに向けた、あの傲岸不遜な顔ではなく、全てを失い、害虫と呼ばれた、あの日の青年の顔に戻っていた。 高値で売れたというのに、彼の魂は救われるどころか、値段をつけられたことで、その価値を完全に規定されてしまったのだ。3800万円分の、惨めな過去。
ラウンジの力関係は、この一瞬で、決定的に塗り替えられた。 裸の王様は、もういない。 ただ、高価な絶望を切り売りした、哀れな男がいるだけだ。
俺は、崩れ落ちた獅子堂から、静かに視線を外した。 魂には、値札じゃない。決して消えない傷跡が刻まれていく。 そして、俺の靴の中にある小石――俺の傷は、まだ誰にも見せていない。 この地獄で、俺はそれをいくらで売るのだろうか。 それとも、最後までこの痛みと共に、道化を演じ続けるのだろうか。
ふと、視線を感じた。 三上弥生だった。 彼女は、獅子堂の無様な姿を、何の感情も見せずにただ見つめていた。 そして、次に、その冷たい瞳を、まっすぐに俺に向けた。 まるで、次はあなたの番よ、とでも言うかのように。 いや、違う。 その瞳が言っていたのは、もっと別のことだ。
――あなたの絶望も、その程度なの?
挑戦的な、光だった。 彼女の憎悪の熾火が、俺の隠している傷の在り処を、的確に炙り出そうとしていた。