第六話:絶望の競売、魂の値札
『記憶の競売』。
その言葉が孕む不吉な響きは、乾パンの粉より、俺たちの喉を渇かせた。ラウンジに設置された黒曜石のテーブルが、まるで祭壇のように見えてくる。
『ルールは、至ってシンプルだ』 蒐集家の声が、俺たちの思考に直接語りかけてくるようだった。 『諸君らには、テーマに沿った己の記憶を、その魂から切り離し、このテーブルの上に提示してもらう。我々ギャラリーは、その記憶の価値を判断し、入札を行う。最も高値で落札された者が、そのラウンドの勝者となる』
ゴクリ、と誰かが唾を飲む音が、やけに大きく響いた。
『提示された記憶は、この場の全員に、あたかも追体験するかのように共有される。諸君らの最も見られたくない過去、最も触れられたくない傷口が、衆目に晒されるというわけだ。もちろん、記憶の売買を拒否する自由もある。その場合、ペナルティとして、前回の審判で得た票数と同数の“何か”を我々に差し出してもらうことになるがね』
それは、事実上の強制だった。票を持たぬ者、あるいは獅子堂のように多くの票を得た者ほど、拒否権を行使しにくい。巧みなジレンマだ。
『そして、落札された記憶は、我々が美味しく頂戴する。売り手である君の脳からは、その記憶は綺麗さっぱり消え去る。絶望を金に換え、その苦痛から解放されるのだ。素晴らしい救済だとは思わないかね?』
救済、だと? 冗談じゃない。記憶とは、人格そのものだ。絶望の記憶であろうと、それは俺という人間を形成した、取り外すことのできない部品のはずだ。それを消し去ることは、魂の一部を削り取られることに等しい。
「最初の絶望、か……」 隣で、鬼頭が、皮肉とも諦めともつかない声で呟いた。彼の口元には、いつもの自嘲の笑みが浮かんでいる。だが、その瞳の奥には、テーマという名のナイフを突きつけられた者の、微かな動揺が揺れていた。
俺は、意識的に視線を三上弥生に向けた。 彼女は、顔を上げていた。憎悪の熾火は、今は静かに、しかし、より深く、その瞳の奥で燃えている。彼女は恐れていない。むしろ、この時を待っていた。彼女にとって、絶望の記憶は売り払うべき過去ではなく、叩きつけるべき武器なのだ。
そして、獅子堂剛。 彼の顔色は、上等なスーツに不釣り合いなほど、土気色にくすんでいた。「光の物語」を語った男にとって、「絶望」は最も縁遠い、あるいは、最も隠したいものに違いなかった。彼の額に浮かんだ脂汗が、その動揺を雄弁に物語っている。
『さて、最初の競売人だが……』 蒐集家の声が、楽しむように間を置いた。誰もが、息を詰めて次の言葉を待つ。獅子堂か? それとも、あの三上か?
『――君にしようか。鬼頭大輔君』
指名された鬼頭は、一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにいつものニヒルな笑みに戻った。 「光栄ですね。トップバッターとは。まあ、俺みたいな人間の記憶に、大した値がつくとは思えませんが」 彼は、まるでバーのカウンターに向かうような気楽さで席を立ち、黒曜石のテーブルに手を触れた。
『では、君の“最初の絶望”を、我々に見せてくれたまえ』
鬼頭が目を閉じると、テーブルの表面が、水面のように揺らめいた。そして、そこから黒い霧が立ち上り、ラウンジの中央に、一つの情景を映し出し始めた。
それは、雨の日の、古びたアパートの一室だった。 幼い鬼頭が、部屋の隅で膝を抱えている。壁紙は剥がれ、床には安酒の瓶が転がっていた。部屋には、怒声と、物が壊れる音、そして女のすすり泣きが満ちている。 『なんで金がないんだ! またパチンコでスッたのか!』 『うるさい! お前が稼げないのが悪いんだろう!』 両親の醜い罵り合い。それは、貧困が生み出す、ありふれた地獄の光景だった。 だが、次の瞬間、俺たちは息を呑んだ。 父親が、テーブルの上にあった小さな鳥かごを掴み、壁に叩きつけたのだ。 甲高い悲鳴と共に、黄色いセキセイインコの、小さな命が潰える。 『――ピーちゃん!』 幼い鬼頭の絶叫が、ラウンジに響き渡った。それは、彼が大切にしていた、たった一人の友達だった。 父親は、泣き叫ぶ息子を、虫けらでも見るような冷たい目で見下ろし、こう言い放った。 『うるせえな。そんなもんに価値なんかねえんだよ。この家にあるもんは、全部、俺のもんだ』 絶対的な理不尽。無力な子供には、抗う術のない暴力。愛されることを諦め、何かを大切に思う心さえも踏みにじられた瞬間。 それが、鬼頭大輔の“最初の絶望”だった。
映像が消え、ラウンジは重い沈黙に包まれた。鬼頭は、顔を伏せたまま、肩を震わせている。あれは、演技ではない。無理やりこじ開けられた古傷の、生々しい痛みだ。
『ふむ……』 蒐集家の声が、沈黙を破った。 『ありふれた家庭不和の記憶だが、子供の純粋な愛情が踏みにじられる瞬間は、なかなかに味わい深い。希少性には欠けるが、質の高い絶望と言えよう』 声は、まるでワインのテイスティングでもするかのように、淡々と記憶を評価する。
『では、入札を開始する。開始価格は――100万からだ』
ラウンジの壁に設置されたモニターに、次々と数字が点灯し始める。ギャラリーたちが、鬼頭の魂の傷に、値札をつけていく。 150万、200万、300万……。 値は、みるみるうちに吊り上がっていく。鬼頭は、ただ呆然と、その光景を眺めていた。自分の不幸が、金に変わっていく様を。
最終的に、その記憶は『750万』という値で、何者かに落札された。 『――落札。おめでとう、鬼頭君。君は750万円と、その忌まわしい記憶からの解放を手に入れた』 声と同時に、鬼頭の身体が、びくりと大きく痙攣した。 「あ……ああ……」 彼は、何かを探すように、虚空を見つめた。ピーちゃん、と呟いたようにも聞こえた。だが、彼の瞳からは、確かに何かの色が抜け落ちていた。あの雨の日の記憶と共に、小鳥を愛した純粋な心の一部もまた、彼の中から永遠に消え去ってしまったのだ。
彼は、ふらふらと自分の席に戻り、力なく崩れ落ちた。もはや、彼の顔に自嘲の笑みはなかった。ただ、空虚な表情があるだけだ。 これが、『記憶の競売』。 これが、魂を売るということの、本当の意味。
靴の中の小石が、また、ずきりと痛んだ。 俺の脳裏に、いくつもの過去が、フラッシュバックする。 手品師だった父の、あの最後の笑顔。約束を破った日の、母の涙。俺が初めて、人を騙して手に入れた、一枚のコイン。 俺の絶望は、いくらの値がつく? そして、それを売った後、俺には、一体何が残るというのだ?
『さて、次の競売人は誰にしようか』
蒐集家の声が、再び響く。 俺は、獅子堂を見た。彼は、鬼頭の変わり果てた姿を見て、完全に恐怖に支配されていた。 そして、三上弥生を見た。彼女は、鬼頭に同情するでもなく、ただ、自分の順番を待っている。その瞳は、次の獲物を定める狩人のように、冷たく、そして鋭かった。 最後に、神楽坂怜と視線が合った。 彼女は、何も言わない。ただ、その氷のような瞳で、俺に問いかけていた。 ――あなたの道化の仮面の下にある“絶望”は、どんな味がするのかしら、と。
地獄の幕は、まだ上がったばかりだった。