第六十一話:三重奏の第一楽章
アトリエの空気は変わった。これまでの疑心暗鬼や個人的な憎悪が支配した、澱んだ空気ではない。東堂という絶対的な敵を前に、三人のプロフェッショナルがそれぞれの仕事に没頭する、極限の集中力だけがそこにあった。
【神楽坂怜の追跡】
神楽坂怜はデジタルの深淵を泳いでいた。彼女のモニターには、東堂が関係する十数ものペーパーカンパニーの金の流れが、複雑な血管のように絡み合っている。
「……金の流れが綺麗すぎる」
彼女は呟いた。
「まるで見られることを前提に作られた完璧な偽装。だが、完璧すぎるものは必ずどこかにノイズを生む」
彼女の指先が、奔流の中から一本の奇妙な糸を見つけ出し、手繰り寄せる。それはスイスのプライベートバンクを経由し、月に一度、必ず同じ日に同じ金額が送金されている、一つの記録。
送金先は、ヨーロッパの片田舎にある無名の美術品修復工房。
他の何億という金の流れの中で、この数十万の定期送金はあまりに小さく、そしてそれ故に異様だった。
「……見つけた」
神楽坂は、その工房の名前をコピーした。
神の要塞に空いた、最初の小さな風穴。
彼女は、その穴から冷たい風を送り込む準備を始めた。
【後藤浩介の探索】
後藤浩介は埃とカビの匂いの中で、過去の亡霊を掘り起こしていた。警視庁の地下資料室。彼は、Gallery Nyxに「作品」として展示されていた他の人間たちのファイルを、片っ端から洗い直していた。
獅子堂剛。鬼頭満。
彼らの過去の交友関係、金の流れ、その全てを東堂という一点と結びつける、僅かな接点を探して。
それは砂漠で一粒の砂金を探すような、絶望的な作業だった。
だが、猟犬の執念がついに一つの匂いを嗅ぎつけた。獅子堂剛がまだNPO法人を立ち上げたばかりの頃。彼の団体の最初にして最大の寄付者。その金の流れの先にあった一つの財団。
『芸術文化振興機構』
後藤の動きが止まった。
東堂が名誉顧問を務める、あの財団だ。
点は繋がった。
東堂は、あの最初のデスゲームの段階から、獅子堂という駒を自らの手で育て、そして観察していたのだ。
後藤は静かにファイルを閉じた。
これで、東堂と蒐集家たちの繋がりを証明する最初の証拠が手に入った。
【三上弥生の覚悟】
三上弥生はアトリエで絵を描いてはいなかった。彼女はただ静かに、古い写真や手紙の束を見つめていた。母、三上環が遺した数少ない記録。
それは彼女にとって、復讐の道具ではなかった。
役作りのための、完璧な脚本だった。
彼女は母の筆跡を真似て文字を書いた。母が好んで使っていた香水を、僅かに手首につけた。母が生前、東堂とどんな会話をしていたのか。その手紙の行間から母の声を、その魂の色を読み解いていく。
彼女はもはや、三上弥生ではなかった。
東堂がその才能に執着し、その苦悩を愛した天才画家、「三上環」そのものになろうとしていた。
黒崎の亡霊が囁く声は、もう聞こえない。
彼女は自らの意志で、最も危険な仮面を被ろうとしていた。
全ての準備が整った時。
彼女は一枚の便箋を手に取り、そして万年筆を走らせた。
それは東堂へ宛てた、一通の手紙。
母の筆跡で、母の言葉で、そして母の魂の色で綴られた、完璧な偽物。
『――ご無沙汰しております、東堂先生。母、環の娘、弥生です』
彼女はその手紙を静かに封筒に入れた。
神殺しのための最初の一手が、今、静かに盤上へと置かれたのだ。




