第五話:勝者の饗宴と、靴の中の小石
最初の審判は、ラウンジの空気を、まるで化学実験のようにがらりと変質させた。 勝者と、敗者。 その間に引かれた一本の線は、目には見えないが、ベルリンの壁よりも冷たく、そして分厚かった。
『――勝者には褒美を。敗者には糧を』
蒐集家の声が、インターバルの開始を告げた。 すると、ギャラリーの中央に、一台の豪奢なワゴンが、音もなく滑り込んできた。その上には、ローストビーフの艶かしい肉塊、色とりどりの果物、そして年代物のワイン。それらは全て、たった一人の男のために用意されたものだった。 勝者、獅子堂剛。 彼は、まるで戴冠式を終えた王のように、悠然と席を立ち、ワゴンから抜き放ったワインのコルクを、天井に向けて高らかに打ち上げた。ポン、という軽薄な音が、敗者たちの沈黙に突き刺さる。
「はっはっは! 諸君、遠慮することはない! 私の勝利を、そこで指をくわえて祝福したまえ!」
獅子堂のプライドは、安物のシャンパンの泡のように、派手に、そして軽薄に弾けていた。 彼以外の俺たち十一人の前には、それぞれ、皿に乗せられた一枚の乾パンと、ぬるい水が入ったグラスが、まるで囚人の食事のように無造作に置かれた。 これが、序列。これが、価値の差。 あまりに分かりやすく、そして、それ故に、残酷な演出だった。
俺は、その他大勢の敗者に紛れ、味気ない乾パンを、砂でも噛むように口に含んだ。 そして、動いた。 道化は、王に謁見しなければならない。 俺は、おどおどした足取りで、ワイングラスを片手に上機嫌な獅子堂に近づいた。その数歩の距離が、まるで国境線を越えるように、重く感じられた。
「あ、あの、獅子堂さん。おめでとうございます。いやあ、やっぱり獅子堂さんの物語には、敵いませんよ」
俺は、自分の告白と同じ、少し頼りない、しかし人好きのする笑みを浮かべた。 獅子堂は、俺を値踏みするように一瞥し、やがて満足げに頷いた。 「分かっているじゃないか、黒崎君。君の物語も、まあ、悪くはなかった。正直者の、人のいい話だ。だがな、この世界で勝つのは、いつだって光の物語なのだよ」 彼は、俺の肩を、親しげに、しかし所有物を確認するように強く叩いた。「私の下でなら、君のような男でも、役に立つ道があるかもしれんぞ」
彼は、俺を「使える道化」として、彼の王国に迎え入れようとしている。黒崎譲という人間ではなく、「正直者で金に困っている、御しやすい駒」として。 計画通りだ。俺は、曖昧に笑って頭を下げながら、彼の弱点を確信した。過剰な承認欲求と、自分を疑うことを知らない、致命的な傲慢さ。この男は、いつかその光に、自らの身を焼くことになるだろう。
俺が獅子堂の元から離れると、まるで待ち構えていたかのように、影が俺の隣に立った。 氷の女、神楽坂怜だった。 彼女は、俺に視線を合わせない。ただ、獅子堂が繰り広げる一人舞台を眺めながら、静かに、しかし刃物のような切れ味で、囁いた。
「面白い道化芝居だったわ。黒崎譲」 「……何のことです?」 「あなたの告白。詐欺被害、借金、そして手品。あまりに類型的な弱者の物語。だが、その構造は、論理的に破綻がなく、美しくさえあった。人を騙すためではなく、人に『騙されている』と信じ込ませるための、高度な設計思想」
彼女は、俺の嘘がどこにあるのかには言及しない。だが、俺の物語が「設計」されたものであることを、完全に見抜いていた。
「一つ、教えてあげる」と、彼女は言った。「あなたの物語に、私も一票投じたわ。あのテーブルで、退屈な真実や、醜悪な現実よりも、美しい嘘のほうに価値があると思ったから。それだけよ」
彼女は、それだけを言い残し、すっと闇に消えた。 背筋を、氷水が流れるような悪寒が走った。俺の最大の理解者であり、そして、最も危険な敵。彼女は、俺と同じ種類の人間だ。ただ、俺が感情を演じる道化なら、彼女は感情を排除する機械だ。
ギャラリーの隅では、別のドラマが、静かに進行していた。 精神が砕け散ってしまった相田。彼の心は、割れたガラス細工のようだった。もう誰も、元の形に戻すことはできない。その彼に、三上弥生が、そっと自分の分の水を差し出そうとしていた。 「……飲む?」 その声は、純粋な善意からだっただろう。 だが、相田は、その手を激しく振り払った。 「さわるなッ! 偽善者が……! お前も、俺を笑ってたんだろ!」 プライドを破壊された人間は、優しささえも、攻撃と受け取ってしまう。三上は、傷ついた顔で、静かに後ずさった。 俺は、その光景から目を逸らした。 靴の中の小石が、また、ちくりと痛んだ気がした。
やがて、勝者の饗宴は、終わりを告げた。 『――インターバルは終了だ』 蒐集家の声が、俺たちを再び現実へと引きずり下ろす。
『諸君らの語った物語、その告白は、実に興味深かった。嘘と真実が織りなす、見事なタペストリーだったよ。だが、言葉だけでは物足りない』
声は、ねっとりとした期待に満ちていた。
『次は、その物語の裏付けとなる、本物の『記憶』を拝見しようじゃないか。諸君らの魂の、原風景を』
次のゲームが、『記憶の競売』であることを、その言葉は示唆していた。
『最初のテーマを発表しよう』 『テーマは――“最初の絶望”。』
『諸君が、人生で初めて味わった、あのどうしようもない絶望の記憶。それを、我々に見せてくれ』
絶望、だと。 幸福とは、真逆の。 獅子堂の顔から、血の気が引いていくのが見えた。鬼頭の口元が、自嘲に歪んだ。そして、三上弥生は、まるでその言葉をずっと待っていたかのように、顔を上げた。 その瞳の奥で、俺だけが見た、あの憎悪の熾火が、再び、静かに揺らめいていた。 今度は、俺の人生の、どの傷口を抉り出し、値札をつけて、売りさばけばいい? 思考が、高速で回転を始める。 地獄の第二幕が、静かに、そして確実に、上がろうとしていた。