第五十五話:観客の貌(かお)
後藤浩介は、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるのを、感じていた。 目の前のガラスケースの中に展示されている、数々の「作品」。 獅子堂、鬼頭、そして、三上環。 ここは美術館ではない。墓標だ。蒐集家たちが弄んだ魂の残骸を、戦利品として並べる冒涜的な霊廟。
彼は平静を装い、踵を返した。 アンドロイドの受付嬢が、無機質な瞳で彼を見つめている。 「佐伯様。作品は、お気に召しましたでしょうか」 「……ああ。素晴らしいコレクションだ。特に『三上環』。あれは、どうやって手に入れたんだ?」 後藤はカマをかけた。美術品ディーラーを演じきり、探りを入れる。
「その作品の来歴につきましては、非公開となっております」 アンドロイドは、表情一つ変えずに答えた。 「ただ、一つ言えることは、全ての作品は、その作者が自らの魂の全てを注ぎ込んだ一点物である、ということでございます」
後藤は、それ以上何も聞かなかった。 聞けなかった。 これ以上ここにいれば、自分が自分でなくなるような、底知れない恐怖。
彼は一礼すると、出口へと向かった。 背後で、音もなく扉が開く。 一歩外へ足を踏み出した瞬間、東京の生温かい夜の空気が彼の肺に流れ込み、彼は自分がずっと息を止めていたことに気づいた。
彼はそれを手に入れた。 敵の本拠地の場所と、そのおぞましい正体を。 だが同時に、理解してしまった。 自分がこれから戦おうとしている相手は、人間ではないのだ、と。
アトリエの空気は、凍りついていた。 三上弥生は、神楽坂怜の前に母の画集と一枚の写真を置いた。 「……見て」
神楽坂はモニターから目を離すと、その物証に一瞥をくれた。 「感傷的なガラクタね。あなたの心を揺さぶるための幼稚な罠。そんなものに付き合っている暇はないわ。私は今、重宗の妻の精神が崩壊したことによって生まれた、デジタル上の亀裂を分析しているの」 「この付箋を見て」 弥生は、震える声で言った。
神楽坂は、面倒臭そうにその小さな紙片に目を落とした。
『――あなたの復讐は、本当に、あなたのものですか?』
「……筆跡から個人を特定するのは非論理的よ。証拠にはならない」
「でも、私には分かる。この文字。これは、父の古い友人で、今は政界を引退した元大臣、東堂の筆跡よ」
その名前を聞いた瞬間、神楽坂の指が止まった。 彼女の思考が、数万分の一秒で検索をかける。 東堂。 重宗快斗の、最大の政治的後援者。 そして、彼が設立したあのクリーンな財団の名誉顧問。
「……あり得ない」神楽坂の口から、初めて純粋な驚愕の声が漏れた。
「なぜ、彼が。動機がない」
「分からない。でも、あの人は昔から母の絵の熱心なコレクターだった。そして、父のこともよく知っている。私にこの問いを投げかける資格がある、数少ない人間……」
二人の間に、戦慄が走った。 このゲームの盤上には、自分たちと重宗快斗、そして蒐集家しかいないと思っていた。 だが、違った。 自分たちのすぐ隣に、ずっといたのだ。 全ての駒の動きを微笑みながら眺めている、第三の影が。 二人の決闘は今この瞬間、全く新しい局面へと移行した。
その頃、重宗快斗は自らの書斎で、一本の電話をかけていた。 彼の声は必死に平静を装っていたが、その指先は僅かに震えていた。
「……先生。ご無沙汰しております、重宗です」
電話の向こうから、穏やかで、しかし全てを見透かすような老人の声が聞こえる。
『おお、重宗くん。どうしたね、改まって』
「いえ、少し厄介な虫が湧きましてな。私の周辺を嗅ぎまわっているようです。妻の様子も少しおかしい。何者かが私の家族を内側から壊そうとしているような気がするのです」
電話の向こうの老人は、しばらく黙り込んだ。 そして、慈しむような優しい声で、こう言った。 『……そうか。それはいけないな。だが、心配することはないよ、重宗くん』
その声は、どこまでも穏やかだった。 『それもまた、芸術が生まれるための必然的な産みの苦しみ、というものだ。君はただ、最高の舞台で最高の悲鳴をあげればいい。全ては、我々の作品のためにあるのだから』
重宗は、その言葉の本当の意味を理解できなかった。 ただ、電話の向こうにいる長年の恩人が、自分には計り知れないもっと深い闇の中にいることだけを、肌で感じていた。
電話が切れた後。 東堂は静かにウイスキーグラスを傾けた。 彼の書斎の壁には、一枚の絵が飾られている。 それは、三上環が生前最後に描いた、未完の傑作だった。
彼は、その絵を見つめながら、一人満足げに呟いた。 「さあ、役者は揃った。私の愛しい弥生くん。君は一体、どんな顔で啼いてくれるのかね」
観客は、もう観客席にはいない。 彼もまた、この狂った舞台の最も歪んだ演出家として、静かにそのタクトを振り下ろそうとしていた。




