第五十話:盤上の不協和音
神楽坂怜は、その禍々しいテキストファイルを読んでいた。
『Niflheim』。
重宗快斗の魂の独白。
それは、日記というにはあまりに哲学的で、自己愛に満ち、そして底なしの絶望に彩られていた。
『――大衆とは、なんと愚かで美しい獣だろうか。彼らは英雄を求める。だが、彼らが本当に欲しているのは、英雄が流す血なのだ』
神楽坂は、その一文を指でなぞった。
反吐が出る。
だが同時に、彼女はこのテキストファイルが、論理で構築されたいかなる爆弾よりも強力な破壊兵器であることを理解していた。
これは敵の弱点ではない。
敵の魂の設計図だ。
ならば、この設計図を最も効果的に利用できる駒は、誰か。
ただ単にリークするのは、三流のやり方だ。それでは、ただの政治スキャンダルで終わってしまう。蒐集家は、そんなありふれた芸術を望んではいない。
彼女の冷徹な思考が、最適解を導き出す。
この毒を盛るべき相手。
それは、重宗快斗の妻。
夫を誰よりも信じ、そして誰よりも彼の完璧主義に苦しめられてきた、哀れな女。
神楽坂は、彼女のセキュリティの甘いメールボックスに、この日記の最も心を抉る一節だけを匿名で送り込む準備を始めた。
三上弥生のやり方を、論理で再現する。
それは彼女にとって最大の皮肉であり、そして最高の一撃となるはずだった。
その夜、重宗家の豪奢な、しかしどこか冷たいダイニングテーブルで、重宗快斗は一人娘のひなたと向かい合っていた。
シェフが腕を振るった、完璧なディナー。
しかし、ひなたはフォークを持ったまま動かない。
「……ひなた? どうした、食欲がないのか?」
重宗は、完璧な父親の笑みを浮かべて問いかけた。
ひなたはゆっくりと顔を上げた。
その純粋な瞳で、まっすぐに父親を見つめて。
「……お父様」
「なんだい?」
「お父様は、いつも悪い竜と戦っている、って言っていましたよね」
「ああ、そうだとも。この国を蝕む悪と戦っている」
「……じゃあ」
ひなたは、首を小さく傾げた。
「その竜を倒したら、お父様は何になるのですか?」
重宗の顔から、完璧な笑みが消えた。
一瞬だけ。
ほんのコンマ数秒。
だが、その僅かな時間の中に、彼の魂が凍り付く音が確かにした。
それは娘の言葉ではない。
娘の口を借りた、誰かの声。
彼の最も触れられたくない心の深淵を、正確に抉る悪魔の問い。
彼はまだ気づいていない。
自らの最も愛するものが、自分を破壊するための最も美しい凶器へと、姿を変え始めていることに。
後藤浩介は独り、アパートのコルクボードの前に立っていた。
彼の脳内で、全てのピースが一つの方を結びつつあった。
天才画家、三上環。
彼女の死。
そして、その娘の存在。
彼は、警察のデータベースに残っていた古い交通事故の調書を手に入れていた。
三上環が死んだ、あの雨の夜の事故。
その加害者の名前を見た瞬間、後藤は全てを悟った。
「……そういう、ことかよ」
彼の口から、乾いた声が漏れた。
加害者の男は、当時まだ無名の政治家秘書だった。
その示談交渉は異例の速さで進み、男は起訴されることなく、その未来を守られた。
その男の名前は――
重宗、快斗。
後藤は、コルクボードに一枚の写真を叩きつけるように突き刺した。
それは三上弥生の学生時代の写真だった。
「見つけたぜ、亡霊」
彼は独り、呟いた。
「てめぇの復讐の始まりは、いったいどっちだったんだ?」
猟犬の瞳が、二匹の怪物の輪郭を確かに捉えた。
盤上の駒は、全て出揃った。
あとは、誰が誰の喉元に最初に喰らいつくか、だけだった。




