第四十六話:二人だけの作戦会議
蒐集家の、脳髄を直接嬲るような声が消えた後、アトリエには、より深く、重い沈黙が降りてきた。それは、もはや、嵐の前の静けさではない。嵐の、渦中にいる者たちだけが知る、異常な静寂。世界の音という音が、全て遠ざかっていくような感覚。
最初に、その沈黙を破ったのは、神楽坂怜だった。 彼女は、崩れ落ちた黒曜石の砂をチラっと視線を向け、何の感情も見せずに、自らのワークスペースへと戻った。次の瞬間、部屋の空気を支配したのは、彼女の指先が奏でる、規則的で、しかし、機関銃のように激しいタイピングの音だけだった。 彼女は、すでに戦いを始めている。 敵の輪郭を、その正体を、膨大なデータの海の中からあぶり出すために。
一方、三上弥生は動かなかった。 彼女は、巨大なコルクボードの前に、ただ立ち尽くしていた。 黒崎譲の思い出を消される。 その、死よりも残酷な罰の宣告が、彼女の思考を未だ痺れさせていた。あの男が遺した、肯定の言葉。救済の記憶。それが、今の彼女を、かろうじてここに繋ぎとめている、唯一の楔だというのに。
失うわけには、いかない。 そのためには、勝つしかない。 神楽坂怜よりも、美しく、そして、残酷に。
弥生は、ゆっくりと振り返った。 神楽坂のモニターには、すでに標的である、衆議院議員・重宗快斗の、公式プロフィールが映し出されている。 「……重宗快斗。当選五回。クリーンな政治を掲げ、支持率は常にトップクラス。資産、経歴、スキャンダル、全てが完璧に白い。論理的に、攻め落とす隙はないように見えるわね」 キーボードを叩きながら、神楽坂が、分析結果を吐き出す。 「だが、完璧すぎるものは、いつだって脆い。この男を構成している数字を、一つずつハッキングと情報操作で、黒く塗り替えていく。それが最短にして、最善の解答よ」
「違う」
弥生は静かに首を振った。 彼女は、神楽坂が映し出すデータの横に、自らの端末で別の画像を表示させる。 それは、重宗が病弱な一人娘と微笑み合っている、プライベートな写真だった。 「この男の、本当のアキレス腱は、数字じゃない。ここよ」 弥生は、その、父親の顔をした、偽りの聖人の瞳を、指さした。 「蒐集家は、社会的な死体が見たいんじゃない。彼らが望んでいるのは、芸術。魂が、最も無様に、最も美しく、壊れる瞬間。信じていたものに裏切られ、愛が憎悪に変わり、心がぽっきりと折れる、その『音』が聞きたいのよ」
「……感情論ね。非効率だわ」
「そうかもしれない。でも、それこそが、アートでしょう?」
二人の視線が、空中で、激しく、火花を散らす。 論理と、感情。 効率と、芸術。 水と、油。 決して、交わることのない、二つの正義。
やがて、神楽坂は、ふっと息を吐き、モニターから、目を離した。 「……分かったわ。あなたは、あなたのやり方でやりなさい。私は、私のやり方でやる」 彼女は、赤いマジックを手に取ると、巨大なコルクボードの、ちょうど真ん中に、一本の線を引いた。 「ただし、互いの作戦に、致命的な干渉があった場合は、その時点で、私たちの共闘は終わりよ」
それは、協力関係の、始まりの合図であると同時に、決別の、最終通告でもあった。 コルクボードの右半分には、神楽坂が、次々と金の流れを示す図や、サーバーの構造図を貼り付けていく。 そして、左半分には、弥生が、重宗快斗の家族構成、人間関係、そして、娘の心のカルテを描き出し始めた。
同じ部屋で、同じ敵を殺すための、二人だけの作戦会議。 アトリエには、再び沈黙が戻ってきた。 だが、その質は先程とはまるで違っていた。
二人の暗殺者が、それぞれの獲物に向かい、静かにその刃を研ぎ澄ます音。 その、冷たい不協和音だけが響いていた。




