第三章プロローグ:決闘の幕開けと黒い共闘
アトリエの空気は、絵の具の油と、いまだ消えぬ硝煙の匂いで、重く澱んでいた。
前の戦いで神に一太刀浴びせたという、錆びついた鉄のような手応えは、時間の経過と共に、ただの冷たい感触へと変わっていた。勝利の祝杯はない。あるのは、次なる一手を見定めようとする、二人の女の、息詰まるような沈黙だけだった。
三上弥生は、一本の木炭を握っていた。真っ白な画用紙の上を、その指先が、答えを見つけられずに、何度も、彷徨う。復讐という名の、どす黒く、しかし、燃えるように鮮やかだった色は、もう、彼女のパレットにはなかった。残されたのは、巨大な虚無。黒崎譲が遺した、「復讐の、その先で、何を描く?」という呪いだけが、彼女の魂の中で、静かに木霊していた。
対照的に、神楽坂怜は、デジタルの奔流の中にいた。彼女の戦場は、現実ではなく、情報の海だ。蒐集家の正体、後藤刑事の動き。その全ての変数を、彼女は一つの勝利の方程式へと収束させようと試みている。だが、その完璧な数式は、黒崎譲という、非合理の亡霊によって、常に、僅かな、しかし致命的な誤差を生み出していた。
二人の間には、もはや言葉はなかった。ただ、互いの存在という名の、重力だけが、部屋の空気を歪めている。
その均衡を、破壊したのは、やはり、神の声だった。
『――幕間は、終わりだ』
声は、耳からではない。脳の髄から、直接響いた。冷たいメスで、思考を切り裂かれるような、絶対的な侵犯。弥生と神楽坂は、同時に、動きを止める。
『貴様たちの、あの、不協和音。実に、楽しませてもらった』 声は、心底、愉しそうに続ける。 『よって、褒美として、貴様たちに、新しい舞台を用意した。もはや、協力などという、生ぬるいものではない。互いの全てを賭けて、その芸術性と、合理性の、どちらが上か、証明し合うがいい』
次の瞬間、二人の脳裏に、直接、一枚の経歴書が、焼き付けられた。 衆議院議員・重宗快斗。偽りの笑顔で国民を欺く、完璧な偶像。
『この男の魂を、キャンバスに、どちらが、より美しく絶望の色で塗り潰せるか』 『これは、競争であり、決闘だ』
蒐集家は、非公式なゲームの開幕を告げた。
『勝者には、我々の素顔に繋がる、パズルの、次なるピースを与えよう』 『そして、敗者には――』
声は、そこで、一度途切れた。 そして、三上弥生にだけ、聞こえるように囁いた。
『――君が、最も大切にしているはずの、あの道化師の思い出を、その魂から、綺麗に消し去ってやろう』
弥生の全身を、戦慄が、貫いた。 それは、死よりも、残酷な、罰の宣告。
神楽坂は、弥生の表情の、その僅かな痙攣を見逃さなかった。彼女は、弥生が何を提示されたのかを正確に理解し、そして、その上で、静かに問うた。 「……やるのね?」
弥生は、答えない。 ただ、ゆっくりと立ち上がり、描きかけのスケッチブックを、閉じた。 そして、作戦司令室へと姿を変えた、巨大なコルクボードの前に、立つ。
彼女の瞳には、もう、迷いはなかった。 憎悪でも、虚無でもない。 ただ、この、くだらないゲームの、ルールの上で、最高の踊りを踊り、そして、最後に、神々の喉元を食い破るという、冷徹な決意の光だけが宿っていた。
二人の天才による、黒い共闘。 その、最初の筆が、今、静かに下ろされようとしていた。




