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ヒトの値段  作者: 窓末
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第二章エピローグ:盤上の駒、盤外の神

1.アトリエの二人


あれから数日が過ぎ、アトリエには以前とは違う種類の静寂が満ちていた。それは嵐の後の静けさであり、次なる嵐を待つ覚悟の静けさでもあった。

三上弥生はイーゼルの前に立ってはいなかった。彼女はスケッチブックを広げ、鉛筆で何かを描いている。それは憎悪に満ちた復讐の絵ではない。人の顔、風景、そして光と影。彼女は、まるで失われた時間と感覚を取り戻すかのように、ただひたすらにデッサンを繰り返していた。彼女が描いた最初の「作品」は、一人の神を玉座から引きずり下ろし、そして一人のジャーナリストを救った。人を破滅させるために振るった筆が、結果として人を救ったのだ。その矛盾、その皮肉。それこそが、黒崎譲が遺した呪いであり祝福なのだと、弥生は理解し始めていた。


神楽坂怜は、その弥生の姿を横目に見ながら、淡々とキーボードを叩いている。

「貴島玄の魔女狩りは続いているわ。だが、本命のターゲット――私たちが逃したジャーナリストの行方は掴めていない。彼は完全にゴーストになった。貴島は今、自分の足元に仕掛けられた爆弾に怯える、ただの人間よ」

「……そう」

「蒐集家からの連絡はあれ以来ない。だが、彼が私たちの反逆に満足していることは間違いないわね」神楽坂は続けた。「彼は単なるサディストではない。筋書き通りに進む物語よりも、役者が脚本を裏切るハプニングを愛する、最悪の観客。私たちの行動は、彼にとって最高のエンターテイメントだった、というわけよ」

二人の視線が、コルクボードに貼られた新しいターゲットのプロファイルへと注がれる。仮面の同盟は終わった。今、ここにいるのは、神々を狩る共犯者だった。


2.書斎の猟犬


後藤浩介は独りオフィスで、壁の調査ボードを見上げていた。そこにはもう公式な捜査資料は一枚もない。全て彼が法を逸脱して手に入れた情報ばかりだ。彼の駒だったジャーナリストは忽然と姿を消し、『曙レポート』は幻だった。彼は完全に、道化師の手のひらの上で踊らされていたのだ。

だが、後藤の心は折れてはいなかった。それどころか、その瞳にはこれまでなかった種類の炎が宿っていた。

『次に、お会いする時は、舞台の上ではなく、観客席で』

“芸術家”からのメッセージ。それは彼を嘲笑う言葉ではなかった。むしろ、彼を同じ舞台に立つ対等のプレイヤーとして認めた、言葉のようにも聞こえた。彼は決意した。もう刑事としてこの事件を追うのはやめだ。それでは、何も見えてこない。

彼は壁から全ての写真を剥がし、たった三枚だけを貼り直した。三上弥生。神楽坂怜。そして、彼女たちが次のターゲットとして彼に示唆した、貴島玄。

後藤はもはや法を守る猟犬ではない。自らの正義を信じ、怪物を狩るためならば、自らも怪物になることを厭わない、一匹の狼へと変貌していた。


3.観客席の神々


そこは、現実感を喪失した空間だった。完全な白で統一されたミニマルなラウンジ。あるいは、物理法則を無視した仮想空間。そこに、二つの影があった。彼らが、蒐集家。その顔は見えない。ただ、その声だけが静かに響いていた。

『雨宮栞は処理された。彼女の審美眼は曇ってしまったからな。我々のコレクションに瑕疵は不要だ』

『だが、面白いことになった。ジョーカーの遺した二人の女優。彼女たちは、我々の脚本を見事に書き換えてくれた』

『ああ。特に、あの芸術家、三上弥生。彼女の描く物語は実に興味深い。憎悪と慈悲。破壊と救済。その矛盾した感情の振れ幅こそが、最高の芸術品だ』

『次の舞台も用意してやった。貴島玄という完璧主義の王様。彼が、あの混沌の女優たちによって、どう壊されていくのか。楽しみで仕方がない』

『ああ、全く、だ。ジョーカーの最後の傑作は、まだまだ我々を楽しませてくれそうだ』

神々は静かに笑う。彼らにとって全てはただの娯楽。盤上の駒たちが、いかに苦しみ、もがき、そして血を流そうとも、それは極上のワインの風味を引き立てるスパイスに過ぎないのだ。

彼らはただ、待っている。次なる、悲劇の幕が上がるのを。

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