第四十四話:悪魔の逆鱗
記者会見場からアトリエの静寂へと戻った弥生の耳には、まだあの混沌の残響がこびりついていた。貴島玄の、怒りと恐怖に引きつった悪魔の素顔。彼女は、確かに神の仮面に傷をつけたのだ。その事実は、彼女の心にこれまで感じたことのない、歪んだ高揚感をもたらしていた。
だがその高揚は、すぐに隣にいる女の冷静な声によって現実に引き戻される。
「ステージ1、クリア、といったところかしら」
神楽坂怜は、タブレットの画面から目を離さずに言った。そこにはSNSのトレンド、株価の変動、そして闇サイトの書き込みといった無数の情報が、滝のように流れ落ちている。
「『曙レポート』という偽りのキーワードは、今、ネットの中で独り歩きを始めている。貴島製薬が潔白を証明しようとすればするほど、その存在しないレポートへの憶測が広がる。見事な情報汚染ね。あなたの咄嗟の判断が生んだ、傑作よ」
「……傑作、かしら」
弥生は呟いた。彼女の脳裏には、ステージの上で崩れ落ちた貴島の顔と、そして自分の嘘を信じ、危険な一歩を踏み出したあの大物ジャーナリストの顔が交互に浮かんでいた。
「ええ、傑作よ」神楽坂は断言した。「私たちは彼の完璧なシナリオに、混沌という名のウイルスを仕込むことに成功した。彼が最も嫌う予測不能な変数。それが今、彼の体内で増殖を始めている」
その言葉通り、神楽坂が監視していた貴島製薬の社内ネットワークが、にわかに活発になった。
「……始まったわね。悪魔の逆鱗に、触れた、代償よ」
後藤浩介は、自分のオフィスで頭を抱えていた。記者会見でのあの一連の流れ。彼の仕掛けた質問は確かに波紋を起こした。だが、その波紋を巨大な津波へと変えたのは、自分ではない、別の誰かだ。サブリミナル的に映し出されたという文書、そして囁かれたという『曙レポート』という謎の言葉。それはあまりに巧妙で、芸術的で、そして悪質な手口だった。
“芸術家”の仕業だ。彼女は、俺の動きを利用した。俺を囮にして、本命の一撃を叩き込んだのだ。
後藤は屈辱と同時に、奇妙な興奮を感じていた。相手は自分の想像を遥かに超える怪物だ。そして、その怪物と自分は今、チェスの盤面を挟んで向かい合っている。彼は情報屋に連絡を取った。
「『曙レポート』。この名前を調べろ。どんな些細な情報でもいい。金の糸目はつけん」
法を逸脱した猟犬は、もう後戻りできない獣道を、突き進むしかなかった。
その頃、貴島玄は自らが所有する地下のシェルターにいた。そこは彼の本当の城であり、完璧なセキュリティと静寂に守られた聖域。だが、今の彼の心は嵐の真っ只中にあった。彼の顔にはもう、あの柔和な救世主の面影はない。ただ純粋な怒りと猜疑心に燃える、一人の独裁者の顔があるだけだった。
裏切り者。この私の完璧な世界に不協和音をもたらした不届き者がいる。一体、誰だ。どこから情報が漏れた。
彼は、私設の情報セキュリティ部門の責任者を呼びつけ、ただ一言、こう命じた。
「……焼き払え」
「は……?」
「あの記者会見に関わった全ての人間を調べ上げろ。質問をしたあの生意気なジャーナリスト、彼が所属する報道機関、会場の設営を担当したイベント会社、ケータリングのアルバイト一人に至るまで。全員の身辺を徹底的に洗い出し、少しでも怪しい金の動き、情報のやり取りがあった者は、社会的に再起不能な状態にまで追い込め。手段は選ぶな」
それはもはや調査ではない。無差別な焦土作戦だった。彼は自らの聖域を守るためなら、その周囲の全てを焼き尽くすことも厭わない暴君だった。
神楽坂のモニターには、その恐るべき魔女狩りが開始された様子がリアルタイムで表示されていく。罪のない人間の人生が、次々と破壊されていく。弥生は、その光景から目を逸らした。
(……これも、私が描いた、絵の、一部、だというの……?)
彼女の芸術は、彼女の意図を超え、多くの無関係な人間を巻き込む災厄となっていた。
アトリエの重い沈黙を破ったのは、あのメッセージの着信音だった。蒐集家。弥生と神楽坂は身構えた。この混沌の責任を問われるのか、それとも新しい命令が下されるのか。
画面に現れたのは、賞賛の言葉だった。
『……ソレデコソ、私ノ芸術家ダ』
その一文に、弥生は絶望した。やはりこれも全て、彼らの望んだ筋書きだったのだ。そして、そのメッセージには一つのファイルが添付されていた。神楽坂が息を呑む。
「……これは……」
彼女がファイルを開くと、そこにはたった一つだけ名前が記されていた。それは、後藤が駒として使った、あのジャーナリストの名前。そして彼の全ての個人情報と家族構成、彼が後藤と接触したという決定的な証拠。
蒐集家は全てお見通しだったのだ。そして彼らは、その後藤の手駒を差し出すことで彼を孤立させ、弥生たちと後藤との対立をさらに煽ろうとしている。神はただ観ているだけではない。自ら舞台に降り立ち、役者たちの耳元で甘く囁き、物語をより残酷で面白い方向へと導こうとしているのだ。
弥生はその画面を睨みつけた。彼女たちの本当の敵は目の前の怪物たちだけではない。この劇を楽しんでいる全ての観客、そしてその中でも最も悪質な脚本家である蒐集家、そのものなのだと。
彼女は静かに立ち上がり、コルクボードの片隅に新しい一枚の紙を貼り付けた。
そこにはただ一言、こう書かれていた。
『観客席』




