第三十七話:道化師の遺産
アトリエのスピーカーから流れ出したその声に、三上弥生は息を止めた。忘れるはずもない、あの全てを見透かしたようで、それでいてどこか哀しい道化師の声だった。死んだはずの男が、語りかけてくる。
『――これを、聞いている、ということは』
黒崎譲の声だった。それは生前の彼が持つ独特の軽やかさと諦観を含みながらも、録音された音声に特有の冷たい響きを帯びていた。
『俺の最初の嘘は、どうやら君に届いたらしいな、三上弥生』
隣で、神楽坂が即座にPCを操作し、音声データの解析を始める。だが、黒崎の声は構うことなく続いた。
『まず、訂正させてもらおうか。俺は君たちが思っているような、ただの被害者じゃない。俺は、蒐集家たちに雇われたコンサルタント……彼らの言葉で言うなら、“ジョーカー”だ。彼らの退屈な日常を彩る、デスゲームのシナリオにスパイスを加える心理プロファイラー。それが、俺の正体だ』
弥生の中で、何かが崩れ落ちる音がした。やはり、そうだったのか。彼の人の良さも、あの父の思い出さえも、全ては計算された演技だったのか。
『だが、俺も彼らの駒の一つに過ぎなかった。俺は、彼らの非人間性に嫌気がさした。人の魂を弄び、その絶望を娯楽として消費する、神を気取った怪物たち。俺は、このくだらないゲームを内側から破壊したかった。だが、そのためには、俺自身がプレイヤーとして、この地獄の盤上に降りる必要があった』
『俺が君を選んだ理由を教えてやろう、三上弥生。俺は、君の中に見たんだ。俺には決して持ち得ない、純粋で、どこまでも深く、そして美しい、憎悪の炎を。あの閉鎖された世界で、他の誰もが自分の命乞いのために嘘を重ねる中、君だけが自分の魂の叫びに忠実だった。その憎しみは、蒐集家たちの退屈な論理や計算を破壊できる、唯一の劇薬だと、俺は確信した』
『だから、俺は、君を救ったんじゃない。解き放ったんだ。俺にはない、本物の憎悪という名の劇薬をね。俺の、死と引き換えに』
声は、淡々と残酷な真実を告げていく。救済ではなかった。彼女は、兵器として、選ばれたのだ。
『俺の劇は、ここまでだ。だが、君たちの劇は、これから始まる。そのための遺産を残しておいた。今、君たちが見ている、このファイルがそうだ。ここには、俺が知り得る全ての情報が入っている。蒐集家の主要メンバーのプロファイル。彼らの資産、弱点、そして恐怖の対象。いわば、神々のカルテだ。それを使って、どう戦うかは、君たち次第だ』
そこで一度、声が途切れた。そして最後の言葉が、まるで弥生の耳元で囁くかのように響いた。
『なあ、三上弥生。君は、君の復讐の、その先で、一体、何を描く? 俺が見たかったのは、その景色なんだ』
音声はそこで終わった。後に残されたのは、再び重い沈黙だった。
神楽坂はその完璧な顔に、畏敬と興奮の入り混じった複雑な表情を浮かべていた。
「……見事な筋書きね。彼は自分自身の命さえも駒として使い、そして、私たちに全てを託した。究極の認識戦争……」
だが、弥生はもう聞いてはいなかった。彼女の心の中では、黒崎の最後の問いが木霊していた。
(復讐の、先で、何を、描く?)
彼女の憎悪は個人的なものではなくなった。それは黒崎譲という男から託されたバトンであり、呪いであり、そして希望でもあった。彼女の心が決まる。その瞳に再び炎が宿る。だが、それはもはや、ただ過去を焼き尽くすだけの憎悪の炎ではなかった。未来をこじ開けるための、覚悟の炎だった。
その頃、後藤浩介は、黒崎譲が絶縁状態だったという、唯一の肉親である叔父の前にいた。後藤は身分を偽り、黒崎の遺品を整理する業者として、彼がかつて住んでいた古びたアパートを訪れていた。叔父は面倒臭そうに鍵を開けると、「あとは好きに処分してくれ」と言い残し、去っていった。
部屋には何もない。ほとんど空っぽだった。だが、後藤は知っていた。黒崎譲という男が、ただの人間ではないことを。彼は刑事の勘で部屋を調べ始め、そして本棚の裏に巧妙に隠された壁の空洞を見つけた。その中にあったのは、一冊の古いノートだった。そこに書かれていたのは、手品師だったという彼の父親の思い出でも、借金の記録でもなかった。
それは、無数の人間の筆跡を模倣した文字で、びっしりと埋め尽くされた交換日記だった。相手はいない。黒崎譲がたった一人で何人もの人格を演じ分け、自分自身と対話を重ねた、その狂気の記録。
その最後の一ページに、こう書かれていた。
『最終幕の準備は、整った。道化師は、舞台を降りる。あとは、最高の女優が、最高の悲劇を演じてくれるのを、客席で待つだけだ』
後藤は静かにノートを閉じた。やはり、全ては彼の脚本通りだったのだ。そして、その後藤でさえも、その脚本の中の登場人物に過ぎないのかもしれない。
アトリエで、弥生は立ち上がった。彼女はコルクボードに向かうと、犬飼や戸田の写真を一枚一枚剥がしていった。彼らはもはやメインターゲットではない。ただの過程に過ぎない。そして、彼女は中央に、黒崎譲の写真を再び貼り付けた。今度のそれは憎悪の対象としてではない。この新しい劇の共同脚本家、そして最初の観客として。
神楽坂がモニターに、黒崎の遺産である「神々のカルテ」を表示させる。そこに並ぶ何人もの男女の顔写真。彼らこそが蒐集家。
弥生はその中から一枚の写真を指差した。
「……最初の色は、この人にしましょう」
彼女の声には、もう迷いはなかった。復讐のその先。彼女は今、新しいキャンバスに、最初の一筆を下ろそうとしていた。
それは、神々への、宣戦布告の色だった。




