第三十五話:道化師の亡霊
アトリエの沈黙は、もはや神の不在を示す静謐なものではなかった。それは、三上弥生の魂の内側から響いてくる、耳鳴りのような静寂だった。彼女の視線は、神楽坂怜が操作するタブレットの一点に、釘付けになっていた。
『Kurosaki, Jo』
黒崎譲。その、ありふれたアルファベットの羅列が、彼女が信じていた世界の全てを、冷たく否定していた。なぜ、彼の名前がここにあるのか。犬飼賢吾の秘密サーバーに、なぜ、あの道化師の名前が記されている? 彼はただの借金を抱えた一般市民ではなかったのか。あのデスゲームで出会った全ての出来事が、彼の人の良い笑顔も、哀しい過去も、そして、あの最後の選択さえも、全てが巨大な嘘だったとでもいうのだろうか。弥生はコルクボードに貼られた黒崎の写真を睨みつけた。写真の中の彼は、あの全てを見透かしたような、それでいてどこか哀しい、道化の笑みを浮かべている。彼女の足元が、ぐらりと揺らいだ。彼女が信じていた唯一の真実、彼女をこの復讐劇へと導いた彼の言葉。その全てが今、不確かな幻想へと変わっていく。
彼女の物語は、一体、誰の脚本だったのか。
「落ち着きなさい、弥生」
神楽坂の声が、混乱の淵に沈む弥生を引き戻した。
「感傷に浸っている時間はないわ。これが嘘か真実かは問題ではない。重要なのは、この新しいデータが、蒐集家を追い詰めるための、新しい武器になるか、どうか、よ」
「武器ですって?」弥生は初めて、神楽坂に激しい感情をぶつけた。「私のこの復讐が! 私が信じてきた全てが! あの男の手のひらの上で踊らされていただけだとしたら……! それでも、あなたはそれを武器と呼ぶの!?」
「ええ、呼ぶわ」神楽坂は即答した。その瞳には一片の揺らぎもない。「あなたのその個人的な感情も、黒崎譲の謎も、全ては方程式を解くための変数に過ぎない。目的は一つ。蒐集家というXの解を求めること。私たちは、そのために同盟を組んだはずよ」
そのあまりに正しい論理が、逆に弥生の激情を冷ましていく。そうだ、と彼女は思った。この女はそういう生き物だった。彼女の前で感情を露わにすることは、自分の弱点を晒すことと同義なのだ、と。弥生は深く息を吸い込み、自分自身を取り戻した。
「……このファイルを、解読できる?」
「時間がかかる。でも、必ずこじ開けてみせるわ。神様の秘密の日記帳を覗くのは、骨が折れそうだけど、ね」
その頃、後藤浩介は、情報屋から受け取った神楽坂怜に関する調査報告書を読んでいた。その内容は、彼の想像を遥かに超えていた。天才数学者として将来を嘱望されながら、忽然と学会から姿を消した彼女。その数年間の空白。その間、彼女はあるプライベート・セキュリティ企業に、非公式なコンサルタントとして籍を置いていた。企業の名前は伏せられていたが、その業務内容は後藤を戦慄させた。
ナラティブ・ウォーフェア。物語戦争。情報操作と心理誘導によって、ターゲットの社会的生命を絶つ。それは、三上弥生が水野沙織に対して行った手口、そのものだった。そして、報告書の最後には、情報屋のこんなメモが添えられていた。
『この会社、一つ奇妙なプロジェクトを請け負っていたという噂がある。コードネームは、“ギャラリー”。企業のスキャンダル潰しなどではない。もっと学術的で閉鎖的な心理実験。いくつかの、“標本”を使った極秘のシミュレーション。その心理プロファイルを設計したコンサルタントが一人いたらしい。仲間内ではこう呼ばれていたそうだ。“道化師”、と』
道化師。後藤はその言葉を反芻した。あの集団失踪事件の報告書の片隅に書かれていた走り書きが、彼の脳裏に蘇る。『まるで、何かを演じているようだった』。
三上弥生という悲劇の芸術家。神楽坂怜という論理の技術者。そして、その二人と同じ地獄にいたはずの、もう一人。黒崎譲。彼もまた、ただの被害者ではなかったとしたら? もし、彼こそが、この狂った物語の最初の脚本家だったとしたら?
後藤の思考はもはや刑事の捜査の範疇を超えていた。彼は巨大な神話の謎解きに挑む、一人の探求者になっていた。
アトリエの静寂を破ったのは、神楽坂の短い息を呑む音だった。
「……解読できたわ」
彼女は弥生を振り返った。その表情には珍しく、困惑と興奮の色が混じり合っている。
「ファイルの一部。暗号化されたテキストデータの断片よ」
弥生はタブレットの画面を覗き込んだ。そこには意味をなさない文字列が並んでいる。だが、その中に、『Kurosaki, Jo』という名前に紐付けられた、一つのプロジェクトコードが記されていた。
Joker_Profile_Draft.docx
「……ジョーカー……プロファイル……ドラフト……」
弥生が、その言葉を一つずつ唇でなぞる。道化師の横顔の草稿。黒崎譲という男。彼が、あのゲームで見せた人の良さも、哀しみも、そして最後の自己犠牲さえも、その全てがあらかじめ用意された役柄だったというのだろうか。彼女を救い、そしてこの復讐という舞台に立たせた、あの男の言葉は、全て脚本に書かれていたセリフだったというのだろうか。
弥生はコルクボードに貼られた黒崎譲の写真を見た。写真の中の道化師は、やはり何も語らない。ただ、その哀しい笑顔で、彼女を見つめ返しているだけだった。
彼女が立っているこの舞台の床が、音を立てて抜け落ちていく。どこまでが真実で、どこからが嘘なのか。その境界線さえも見失った彼女の心は、完全な暗闇の中へと突き落とされた。




