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ヒトの値段  作者: 窓末
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第三十四話:盤上の火事

アトリエのモニターには地獄が映し出されていた。犬飼賢吾の豪奢な私邸がプロの暗殺者チームによって蹂躙されていく。怒号と悲鳴、そして断続的に響く乾いた銃声。それは、三上弥生が描いた静謐な心理的復讐の絵コンテには存在しない、あまりに生々しく、そして醜悪な暴力の色だった。 「……私たちの絵の具が」弥生がか細い声で呟いた。「……勝手に、絵を、描き始めた」 「制御不能なカオス・シミュレーションね」隣で、神楽坂怜がその光景を分析していた。彼女の声は冷静だったが、その指先は休むことなくタブレットの上を滑り、あらゆる情報を収集し続けている。「戸田は私たちが想像していた以上に短絡的で、そして凶暴な駒だった。そして、犬飼もまた同様に。私たちの仕掛けた二つの毒は、彼らの理性を完全に破壊し、ただの獣へと変えてしまった」 彼女たちの描いた緻密な脚本は、もう破り捨てられたのだ。二人の共犯関係は、彼らが思っていた以上に危険な劇薬を生み出してしまった。モニターの中で炎が上がる。蒐集家が最も望んだ混沌の炎が、今、まさに二人の芸術家の制御を離れ、勝手にその最終楽章へと向かって暴走を始めていた。


やがて画面の中の銃声が止み、突入した暗殺者チームは、その目的を達したのか、あるいは失敗したのか、煙のようにその場から姿を消していた。犬飼賢吾の安否は分からない。ただ、静けさを取り戻した屋敷の無残な姿だけがそこにはあった。弥生と神楽坂の間に重い沈黙が落ちる。計画の成功か失敗か、それすらも判断できないこの状況で、二人は待った。この混沌の劇のただ一人の観客である、蒐集家からの賞賛か、あるいは詰問のメッセージを。 だが、ラップトップの画面は暗いまま、何も映し出さなかった。 神の沈黙。それはどんなメッセージよりも雄弁に、彼女たちの今の立場を物語っていた。彼らにとってこの出来事さえも、ただの物語の一幕に過ぎない。結末には興味がなく、ただ次の、より面白い展開を待っているだけなのだ。


後藤浩介は、その血生臭い現場に立っていた。犬飼賢吾の私邸。警視庁の物々しい規制線の中で、彼は部外者としてその惨状を見つめていた。戸田義則が高速道路で襲撃された、そのわずか一日後の出来事。偶然であるはずがない。二人の権力者が血で血を洗う抗争を始めたのだ。そして、その引き金を引いたのが、あの二人の女であることも、後藤は確信していた。 彼は現場の指揮官に食い下がった。 「これはただの襲撃事件ではない。もっと大きな何かが背景にある。私が追っている別の事件との関連も濃厚だ」 だが、指揮官は彼の言葉に耳を貸そうとはしなかった。 「後藤、お前はこの件から外れろ。これは政治家を狙ったテロ事件として、公安が引き継ぐ。お前の出る幕じゃない」 後見のない一匹狼の彼が、警察という巨大な官僚組織の中でいかに無力であるか、それを思い知らされる。 (……ならば、こちらも一人でやるまでだ) 後藤は静かにその場を後にした。彼の脳裏には、情報屋から手に入れたあの報告書の一文が焼き付いていた。『プロジェクト名、“ギャラリー”』。ナラティブ・ウォーフェア、物語戦争。彼は今、まさにその戦争の真っ只中にいるのだ。そして、その戦争で生き残るためには、彼もまた物語の登場人物になるしかなかった。法というルールブックを捨て、自らの正義だけを道標とする、孤独な探偵に。


アトリエの沈黙は続いていた。蒐集家からの連絡はない。それは彼女たちが完全に放置され、そして、この混沌とした盤上で次にどんな一手を指すのかを試されていることを意味していた。 神楽坂が動いた。 「……このまま待っていても意味はないわ。彼らが沈幕している今こそ好機。こちらから仕掛ける」 彼女はタブレットを操作し、犬飼の私邸からハッキングしていた全てのデータを再解析し始めた。 「襲撃の混乱に乗じて、犬飼のセキュリティが一時的に麻痺した。その僅かな隙に、彼の個人サーバーの最深部にアクセスできたわ。そこに、一つ奇妙なファイルがあった」 画面に暗号化されたファイルのアイコンが表示される。 「プロテクトが固すぎる。完全に解読するには時間がかかる。でも、ファイルの一部、そのインデックスだけ抜き出すことに成功した」 神楽坂が指で触れると、いくつかの単語の羅列が現れた。それは人名や地名、そして日付らしき数字の組み合わせからなる、何かのリストのようだった。 「……これは……」 弥生は、そのリストの中に、見覚えのある名前を見つけ、息を呑んだ。


『Kurosaki, Jo』


黒崎譲。 なぜ、彼の名前がここにあるのか。犬飼賢吾の秘密サーバーに、なぜ、あの道化師の名前が記されている? 彼はただの借金を抱えた一般市民ではなかったのか。あのデスゲームで出会った全ての出来事が、彼の人の良い笑顔も、哀しい過去も、そして、あの最後の選択さえも、全てが巨大な嘘だったとでもいうのか。 弥生はコルクボードに貼られた黒崎の写真を見つめた。写真の中の彼は、あの全てを見透かしたような、それでいてどこか哀しい、道化の笑みを浮かべている。彼女の足元が、ぐらりと揺らいだ。彼女が信じていた唯一の真実、彼女をこの復讐劇へと導いた彼の言葉。その全てが今、不確かな幻想へと変わっていく。 彼女の物語は、一体、誰の脚本だったのか。 その答えの見えない問いだけが、静寂のアトリエに、重く、響き渡っていた。

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