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ヒトの値段  作者: 窓末
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第三十一話:書き換えられた脚本

蒐集家からのメッセージが消えた後、アトリエの静寂は、以前とは全く異なる重さで三上弥生と神楽坂怜の肩にのしかかっていた。銀行口座に振り込まれた一億円という数字は、褒美というよりも、首にかけられた見えない鎖の冷たい重みそのものだった。 失敗こそが最高の娯楽。駒の葛藤こそが至上のご馳走。その、どうしようもない事実が、彼女たちの戦いの意味を根底から覆してしまったのだ。


「……面白い」 その静寂を最初に破ったのは、神楽坂怜の温度のない呟きだった。彼女はもう弥生を責めてはいなかった。その瞳は怒りではなく、新しい未知の数式を前にした数学者の、純粋な知的好奇心に輝いていた。 「どうやら私たちがプレイしているゲームの、ルールそのものが間違っていたようね。私たちはこのゲームをチェスか何かだと思っていた。論理と戦略で相手の駒を取り、最終的に王をチェックメイトする、知的なゲームだと。でも、違った」 神楽坂はゆっくりとアトリエの中を歩き始め、その視線はコルクボードに貼られた犬飼や獅子堂の写真の上を滑っていく。 「あの蒐集家という存在は、勝敗には興味がない。彼らが求めているのはロジックの美しさではないのよ。駒が思いもよらない動きをし、盤上が混沌とし、予測不能な物語が生まれる、その過程そのものなの」 神楽坂の言葉は淡々としていたが、それはどんな慰めよりも的確に、弥生の今の絶望の正体を言い当てていた。 「あなたの、あの土壇場での躊躇。それは論理的に見れば最悪のエラーだったわ。でも、物語として見れば、どうかしら? 憎悪に生きてきた聖女が初めて見せる人間的な葛藤。それは実にありきたりで、しかし、それ故に人の心を惹きつける、最高のエンターテイメントよ。あなたは失敗することで、蒐集家の期待に完璧に応えてしまった。そして私は、そのあなたの非合理な行動を予測できなかった。つまり、私たちもまた、プレイヤーとして完全に敗北したのよ」 弥生は初めて、目の前の氷の女の瞳の奥に、自分と同じ種類の屈辱の色を見た気がした。


「取引の条件を変更しましょう」神楽坂は言った。「これまでの私たちの関係はギブ・アンド・テイクのビジネス。でも、それだけではあの気まぐれな神には勝てない。これからは、私たちの関係そのものを、彼らに差し出す餌にするのよ」 「餌に、する?」 「そう。対立し、葛藤し、時には裏切りさえも演じてみせる。憎悪のあなたと論理の私。この、決して相容れない二人の関係性が織りなす不安定な物語こそが、蒐集家が最も観たいと望む演目になるはずだわ」 神楽坂は弥生の目の前に立ち、断言した。 「私たちは、共犯者よ、三上弥生。ただ目的を共有するだけではない。互いの魂を利用し合い、神を欺くための、二人で一つの役者になるの」 それは悪魔の契約だった。だが、今の弥生には、その手を取る以外の選択肢は残されていなかった。彼女の復讐という個人的な芸術は、今、蒐集家を楽しませるための壮大な演劇へと、その脚本を書き換えようとしていた。


その頃、後藤浩介は独り深夜のオフィスで、無数の資料に埋もれていた。料亭での偽りの火災騒ぎは、明らかにターゲットを逃がすためのプロの手口だった。そして、その混乱の中、彼が唯一視認できた仲居姿の女は、間違いなく三上弥生だ。だが、証拠はない。全ては状況証拠と、彼の刑事としての勘だけ。これでは動けない。 (このままでは、また、次の“作品”が、生まれる……) 後藤は唇を噛んだ。法と手続き。それが彼の武器であり、同時に最大の枷だった。この法を無視した芸術家アーティストを狩るためには、自分もまた法を逸脱するしかないのか。彼は机の一番奥の引き出しから一本のUSBメモリを取り出した。それは、彼が過去の内偵調査で手に入れた、非合法な情報屋の連絡先だった。一度でもこれを使えば、もう後戻りはできない。刑事としての一線を超えることになる。数秒迷った後、彼はそのUSBメモリを自分のPCに差し込んだ。画面に匿名のチャットウィンドウが開く。後藤は、そこに、たった一行だけ打ち込んだ。 『“芸術家”の、次の個展の、情報を、買いたい』 送信ボタンを押した指先が、僅かに震えていた。猟犬は自ら、その首輪を外したのだ。


アトリエの空気は変わっていた。弥生と神楽坂の間には、もはや敵意も不信もなかった。ただ、より深く、そして冷たい、共犯者としての覚悟だけが漂っている。 「次の舞台は、どう描く?」 神楽坂の問いに、弥生は答えた。 「彼が物語を望むなら、最高の物語を見せてあげる」 彼女は新しいコルクボードの前に立ち、断言した。 「犬飼賢吾を断罪する、という筋書きは変えない。でも、その過程を、彼らが最も喜ぶ形に演出するのよ」 弥生は、犬飼の写真の隣に、新しい一枚の写真を突き刺した。それは、あの料亭の防犯カメラが一瞬だけ捉えていた、建設会社の社長、戸田義則の顔写真だった。神楽坂が即座に抜き出したデータだ。 「犬飼を追い詰めるための、新しい駒よ」 弥生の瞳には、もう迷いはなかった。彼女の断罪のパレットの上で、どす黒い憎悪と、あの、一瞬の人間的な光が、混ざり合い、これまで誰も見たことのない、新しい、複雑な「色」が、生まれようとしていた。 それは、神を、欺くための、罪の色だった。

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