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ヒトの値段  作者: 窓末
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第三十話:神の喝采

スイートルームの重厚なドアが開く。そこに立っていた後藤浩介という男の存在は、張り詰めていた部屋の空気を一瞬でガラスのように凍てつかせた。


三上弥生の心臓が、一度大きく跳ねた。あのアトリエに現れた刑事。なぜ、ここに。どうして、このタイミングで。無数の問いが彼女の頭の中を駆け巡るが、その顔は完璧な秘書の仮面を貼り付けたまま、僅かな動揺さえも見せない。


一方、犬飼賢吾は、長年の盟友からの裏切りを示唆する証拠を突きつけられ、怒りと疑心暗鬼の渦の中にいた。そこに現れた、警察を名乗る闖入者ちんにゅうしゃ。彼の苛立ちは頂点に達していた。


「犬飼先生、お話中に失礼いたします。先生の身辺警護に関しまして、至急ご確認させていただきたい事項が発生いたしました」


後藤の声はどこまでも丁寧だった。だが、その瞳は犬飼ではなく、その隣に控える秘書姿の弥生を真っ直ぐに射抜いていた。


「警護だと?一体、何の話だね、君は」


犬飼が不快感を隠そうともせず吐き捨てる。


後藤は、その態度にも動じず、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。そして、テーブルの上に広げられた偽りの証拠書類に一瞥をくれると、さも全てを理解しているかのように言った。


「最近、先生の周辺で不審な情報操作の動きが観測されまして。例えば、先生の長年のパートナーでいらっしゃる戸田社長に関する、根も葉もない噂が流されている、とか」


その言葉に、弥生の背筋を冷たいものが走った。


この刑事、全てお見通しか。いや、違う。これは揺さぶりだ。俺たちの反応を窺っているのだ。


イヤホンから、神楽坂の冷静な、しかし焦りを含んだ声が聞こえる。

『――彼、後藤浩介。警視庁捜査一課。マークされているわ。彼の目的はあなたと私。挑発に乗ってはダメ。秘書を演じ切りなさい』


弥生は心得ていた。彼女は驚いたように少しだけ目を見開くと、犬飼を気遣うように言った。


「まあ、そのような下世話な噂が。犬飼先生も、お立場上大変でございますね」

完璧な演技だった。


だが、後藤の次の一手は彼女たちの想像を遥かに超えていた。


「ええ。そして、我々もその噂に関する資料をいくつか入手しておりまして」


後藤はそう言うと、弥生が持参した封筒を指差した。


「恐らく、そちらも同様のものでしょう。しかし、我々の分析では、この資料そのものが、誰かが先生と戸田社長の仲を引き裂くために極めて巧妙に仕組んだ、偽情報フェイクである可能性が極めて高い」


偽情報。

その言葉が、スイートルームの静寂に突き刺さる。


犬飼の顔が驚愕に歪んだ。裏切りに怒っていたはずの彼の思考は、今、完全な混乱に陥っている。戸田が嘘をついているのか。それとも、目の前の秘書が嘘をついているのか。あるいは、この刑事こそが嘘をついているのか。


そして、その刃は弥生にも向けられていた。


後藤は弥生にこう問いかけているのだ。「お前のついた嘘を、俺は見抜いているぞ。さあ、どうする?」と。


絶体絶命。


だが、弥生はその土壇場でこそ輝く役者だった。

彼女は悲劇のヒロインのように顔を青ざめさせ、か細い声で言った。


「まあ、偽情報ですって? そんな、恐ろしい……。わたくし、そのような重大なお話に、これ以上同席しているわけにはまいりませんわ」


彼女は震える手で口元を覆うと、深くお辞儀をした。


「申し訳ございません、犬飼先生。わたくしはこれで、失礼いたします」


それは完璧な退場劇だった。秘書としての立場を最大限に利用し、この修羅場から脱出する唯一の方法。


彼女は後藤の横をすり抜けるように、ドアへと向かった。


そのすれ違う一瞬。


二人の視線が再び交錯した。

そこには言葉にならない火花が散っていた。

(――面白い絵を描くじゃないか、芸術家) (――私の舞台の邪魔をしないで、猟犬)


無言の宣戦布告。


ドアが閉まる。後に残されたのは、疑心暗鬼の塊と化した権力者と、その心に巧みに入り込んだ一匹の猟犬だけだった。


--------------------


ハイヤーの後部座席で、弥生は大きく息を吐き出した。全身が冷たい汗で濡れている。


『……見事な切り抜け方だったわ、弥生』


イヤホンから、神楽坂の素直な感心の声が聞こえた。『あの状況で、あれ以上の選択はなかった』


「でも、計画は失敗よ。犬飼はもはや私たちの情報を鵜呑みにはしない。それどころか、私たち自身が彼にとっての敵になった」

「ええ。そして、後藤浩介という最大のノイズが混入した。今後の計画は、白紙から練り直す必要があるわね」

二人の間に、重い沈黙が落ちた。


その時、弥生のスマートフォンの画面が点灯した。

また、あの黒いメッセージアプリ。


蒐集家からだった。

弥生は身構えた。失敗を詰問される、と。だが、そこに表示された言葉は、彼女の予想を再び裏切った。


『素晴ラシイ!実ニ、素晴ラシイ!』

『予測不能ナ、第三者ノ、介入!役者ガ、揃イ、舞台ハ、最高潮ダ!』

『コレコソガ、私ガ見タカッタ、物語!』


そのメッセージに続いて、銀行アプリからの通知がポップアップした。

『ご入金がありました。金額: 100,000,000円』

弥生は、その画面をただ呆然と見つめた。


神楽坂も、イヤホンの向こうで絶句しているのが分かった。


彼らは罰せられなかった。

それどころか、褒美を与えられたのだ。


後藤浩介というイレギュラーの登場が、この劇をより「面白く」したという、ただそれだけの理由で。

弥生は、ようやく理解した。


このゲームの本当の恐ろしさを。

蒐集家という神は、自分たちの勝利も敗北も望んではいない。

ただ、自分たちがこの盤上で苦しみ、葛藤し、予測不能なドラマを演じ続けること。それ自体を娯楽として消費しているのだ。


後藤刑事はもはやただの敵ではない。

蒐集家によってこの舞台に送り込まれた、新しい魅力的な登場人物なのだ。


そして、自分たちは、その舞台の上で、より面白い踊りを踊り続けることでしか生き残れない道化師なのだと。


その、どうしようもない絶望が、彼女の心を再びあのデスゲームのラウンジへと引き戻していった。

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