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ヒトの値段  作者: 窓末
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第二十八話:ひび割れた仮面、疑心の芽

チャリティ・オークションの偽りの煌びやかさから一夜が明け、戸田義則は、自らが社長を務める都心の一等地にそびえ立つオフィスビルの最上階にいた。窓の外には、彼がその欲望のままに動かしてきた東京の街がジオラマのように広がっている。だが、彼の目に映るその景色は昨日までとはどこか違って見えた。まるで精巧に作られたガラス細工の表面に、一本の細く、しかし致命的な亀裂が入ってしまったかのように。


彼の脳裏には、昨夜のあの女の言葉がこびりついて離れなかった。

『王は将軍の忠誠を信じ切っている。でも、その将軍はすでに敵と内通し、王の首にかける縄を編んでいる……』

馬鹿な。ただの偶然だ。美術品にかこつけた、思わせぶりなだけの会話。そう、頭では分かっている。だが、一度心に植え付けられた疑心暗鬼という名の種子は、彼の長年の経験と自信を養分として、静かに、しかし確実にその黒い芽を伸ばし始めていた。


彼は無意識に、長年の盟友であり共犯者である犬飼賢吾のことを考えていた。

そういえば、昨日の密会の後、犬飼の様子がどこかおかしかった。次の会合の日程を決めようとした時、珍しく言葉を濁していた。本当にただ多忙なだけなのか? あるいは、自分に知られたくない別の誰かと会う約束でもあるのか?

これまで気にも留めなかった些細な出来事が、次々と意味を帯び始める。


彼の思考がネガティブな螺旋を描き始めた、まさにその時だった。

社長室の彼のPCに、一通のメールが届いた。


差出人は匿名。件名にはただ一言、『忠告』とだけ記されている。

戸田は眉をひそめながらも、その添付ファイルを開いた。

そこに現れたのは、一つの音声データと数枚の財務書類のスキャン画像だった。

彼はまず音声データをクリックした。スピーカーから流れ出したのは、聞き慣れたあのふてぶてしい犬飼の声だった。

『……戸田の会社も、もう潮時かもしれん。次の事業では、もっと若くて言うことを聞く別の駒を用意させるさ……』

それは彼の知らない別の誰かと話している盗聴音声。


続いて、財務書類。それは、犬飼が裏で別の建設会社と接触し、戸田の会社を切り捨てる計画を立てていることを示唆する、完璧に偽造された証拠の数々。

戸田の顔から血の気が引いていく。

昨夜あの女が囁いた物語が、今、目の前で悪夢のような現実として形を成したのだ。


彼は裏切られた。

長年信じ、そして共に罪を重ねてきた、あの男に。

彼の仮面が怒りと屈辱にひび割れていく。そのひび割れから、黒い復讐心がどろりと溢れ出した。


--------------------


アトリエの薄暗い部屋の中。

弥生と神楽坂は、その一部始終をモニター越しに見ていた。

神楽坂がハッキングした戸田のPCのウェブカメラが、彼の表情の変化を克明に捉えている。

「……面白いほど簡単な男ね」

神楽坂は、まるでチェスで相手の単純なミスを指摘するように言った。

「私が用意した偽りの情報データを、何の疑いもなく信じている。彼の長年の経験則が、逆に思考を硬直させているのよ。一度疑念を抱けば、全ての事象をその疑念に結びつけて解釈しようとする。人間とは、実に不合理な生き物だわ」


弥生は何も答えなかった。

彼女はただ、モニターの中で怒りに震える戸田の顔を見つめていた。

それは彼女が望んだ光景のはずだった。


憎むべき巨悪たちが互いに食み合う、醜悪な地獄絵図。

だが、彼女の心は奇妙なほど冷え切っていた。水野沙織の破滅を見た時のような、あの冷たい充足感さえない。

ただ、自分が描いているこの“作品”が、本当に自分の描きたいものなのかというかすかな違和感だけが、インクの染みのように胸に広がっていた。


--------------------


後藤浩介は、情報屋から受け取ったデータを睨みつけていた。

前金で得られた情報はわずかだったが、しかし決定的だった。


『犬飼と戸田の周辺サーバーに、幽霊のようなアクセスログが残っている。極めて高度なハッキング技術。そして、その痕跡から逆探知したデジタル指紋は、数年前に学会から姿を消した天才数学者……神楽坂怜のものと酷似している』


後藤の脳内で、全てのピースが繋がった。


芸術家、三上弥生。そして彼女を裏で操る技術者、神楽坂怜。

あの集団失踪事件の二人の生存者が手を組み、この一連の事件を引き起こしている。


彼は情報屋に追加の料金を支払った。

「その神楽坂怜という女の、現在の拠点を割り出せ」


数時間後、送られてきた答え。それは、都心にある一つの高層マンションの名前だった。

三上弥生が契約しているあのアトリエと同じマンション。

間違いない。そこが彼女たちの巣だ。


後藤は静かに立ち上がった。

もう待つ必要はない。

猟犬は獲物の匂いを完全に捉えたのだ。


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アトリエの空気が、再び動こうとしていた。

「第一段階は成功ね」神楽坂は言った。「戸田は完全に犬飼を敵と認識した。次はあなたの出番よ、弥生」

「……ええ」

「今度は犬飼に近づき、戸田があなたを裏切ろうとしていると囁くの。私が用意した別の偽りの証拠を使って。これで、彼らの信頼関係は完全に破壊される」


弥生はコルクボードに向き直った。

犬飼、戸田、獅子堂、そして黒崎。

いくつもの顔が彼女を見つめ返している。

(これが私の舞台)

彼女は自分に言い聞かせた。

これは私が選んだ道なのだ、と。


彼女は黒崎譲の証明写真を、指でそっとなぞった。

道化師のあの最後の笑顔が甦る。

彼女は今、彼と同じ嘘つきの舞台に立っている。

その覚悟を胸に、彼女は次の仮面を手に取った。


犬飼賢吾という最大のターゲットの前に立つための、新しい仮面を。

彼女の断罪の二幕目が、静かに始まろうとしていた。

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