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ヒトの値段  作者: 窓末
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第二十七話:二幕目のための絵コンテ

蒐集家からの、あの悪趣味な賞賛から数日が経ち、アトリエの空気は張り詰めたままではあったが、その質は以前の孤独な憎悪や行き場のない絶望とは全く異なっていた。そこにあったのは、共通の敵を前にした二人の共犯者だけが共有し得る、冷たい覚悟の匂いだった。三上弥生と神楽坂怜。二人の仮面の同盟は、その最初の、そして最も重要な絵コンテの制作に取り掛かっていた。


部屋の中央に鎮座する新しいコルクボードは、もはや個人的な復讐の設計図ではなかった。中心に突き刺された大物政治家・犬飼賢吾の写真。その隣には彼と癒着する建設会社社長・戸田義則の顔。そして、その二つの写真を赤い糸で結ぶように、獅子堂剛が代表を務めていたNPO法人の名前と金の流れを示す図が配置されている。それは、彼女たちの知り得た、世界の歪みの縮図だった。


「ただ、犬飼の不正の証拠を暴くだけでは足りない」神楽坂は、タブレットの画面に膨大な金融データを表示させながら言った。その指先はまるで高速でピアノを演奏するように滑らかに動いている。「それだけでは蒐集家を満足させられない。彼らが求めるのは、私たちが提出するレポートではなく、私たちの葛藤が生み出す物語なのだから」 「……ええ」弥生はその言葉に静かに頷いた。「彼らは私たちに踊りを求めている。ならば最高の舞台を用意して、最高の踊りを見せてあげる。ただし、その演目は私たち自身が決める」 「その通りよ。私たちの目的は、蒐集家を満足させるフリをしながら、彼らの正体に繋がる情報を引き出すこと。そのための筋書きが必要ね」 二人の視線が交錯する。 「犬飼と戸田。この二人の共犯関係に亀裂を入れるのよ」神楽坂は二人の男の写真の間に線を引いた。「私が金の流れを偽装し、戸田が犬飼を裏切ったかのように見える状況証拠を作り出す。デジタルな痕跡は私が全て用意するわ」 「そして、その偽りの証拠という絵の具を、キャンバスに塗りつけるのが私の役目」弥生がその言葉を引き継いだ。「戸田に近づき、彼に囁くの。犬飼はあなたを裏切ろうとしている、と。疑心暗鬼という、最も効果的な毒を彼の心に注ぎ込む」 論理が骨格を作り、憎悪が肉付けをする。蒐集家という神を欺くための完璧な絵コンテが、少しずつ形を成し始めていた。


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その頃、後藤浩介は、新宿の雑居ビルの薄暗い喫茶店の、一番奥の席で一人の男を待っていた。刑事としての彼が決して足を踏み入れてはならない領域。だが、猟犬は自ら首輪を外したのだ。やがて現れた痩せた神経質そうな小男は、後藤の向かいに音もなく座ると、テーブルの上で指を組んだ。 「……で、どんな情報を、お買い上げに?」 非合法な情報屋は、そう言って、後藤を値踏みするように見た。後藤は動じず、この世界の流儀を知る者として、単刀直入に切り出した。 「犬飼賢吾と、戸田建設。この二つの周辺で、最近起きた、奇妙な金の動きや情報の流れを知りたい。特に、ハッキングやデータ改竄の痕跡があれば、最高だ」 彼は決して、三上弥生や神楽坂怜の名前は出さなかった。それでは、こちらの手の内を明かすことになる。情報屋はしばらく後藤の顔を見ていたが、やがて、にやりと笑った。 「……あんた、面白い、絵を、追ってるね」 彼はそう言うと、持参したノートPCを開いた。「前金次第だけどね」 後藤は無言で一つの封筒をテーブルの上に滑らせた。それが、彼がこの禁じられたゲームへの、参加料だった。


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弥生は、鏡の前に立っていた。そこに映っていたのは、もう復讐の芸術家ではなかった。滑らかなシルクのドレスと、上品に輝く宝飾品を纏ったその姿は、海外帰りの資産家の令嬢か、あるいは新進気鋭の美術評論家か。それが、彼女が今夜被る新しい仮面だった。神楽坂が見つけ出したターゲットへの接触ポイントは、政財界の人間が密かにお忍びで集まるチャリティ・アートオークションの会場だった。戸田義則は、美術品の熱心なコレクターとして知られている。 「……似合うかしら」 弥生が誰に言うでもなく呟くと、イヤホンから神楽坂の声が返ってくる。 『問題ないわ。あなたは、役者になるべきだったのかもしれないわね』 その言葉に皮肉がこもっているのかどうかは、弥生には分からなかった。彼女は鏡の中の自分に言い聞かせる。これは演技だ。黒崎譲がそうしたように、この仮面を被り、神を、観客を、そして自分自身さえも欺くのだと。


オークション会場は、偽りの煌びやかさに満ちていた。シャンパングラスを片手に談笑する紳士淑女たち。その笑顔の裏側でどんな欲望が渦巻いているのか、弥生にはその全てが醜い絵の具のように見えた。 『――ターゲット、三時の方向。ムンクのリトグラフに見入っている』 神楽坂の声に、弥生はゆっくりとそちらへ視線を向けた。そこにいた戸田義則は、初老の紳士とした佇まいで、一枚の絵を熱心に眺めている。息を整え、舞台の幕を上げる。彼女は優雅にグラスを手に取ると、まるで偶然を装うように彼の隣に立った。そして、彼が見つめている絵に同じように視線を送りながら、静かに囁いた。 「……素晴らしい、作品ですね」 戸田は、その不意の声に、僅かに驚いたように弥生の方を振り返った。「ええ、まあ……」 「描かれているのは、王様と、その、最も信頼していた将軍」弥生は続けた。その声は、甘く、そしてどこか不吉な響きを含んでいた。「王は、将軍の忠誠を信じ切っている。でも、その将軍はすでに敵と内通し、王の首にかける縄を、編んでいる……」 弥生はそこで言葉を切り、戸田の目を真っ直ぐに見つめた。 「いつの時代も繰り返される、ありふれた裏切りの物語。でも、だからこそ、人の心を、惹きつけてやまないのでしょうね」 戸田の表情が変わった。彼の顔に一瞬だけ浮かんだ動揺と疑念の色を、弥生は決して見逃さなかった。彼女の断罪のパレットから、最初の一滴の毒が、確かにターゲットの心へと零れ落ちた、瞬間だった。

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