第3章|強化という標準
視点:カイ・ナカジマ(19歳・大学1年・神経強化ナノ導入者)
舞台:第三区・千里丘アカデミックタウン/神経認知大学Nano科教育棟
精神の機械
カイ・ナカジマ、19歳、神経認知大学ナノ科の一年生。彼は第三区の千里丘アカデミックタウンの産物だった。
脳はNeuroNano-C v7により強化され、自動操縦で動いていた。感情はまだ眠っていたが、彼の認知帯域は既に「学習モード」に移行していた。これが「強化された学生」の日常だった。
通学中、NeuroNanoは彼の歩調を記憶想起と同期させ、講義ノートが視覚補助HUDに重なって表示される。大学に着くまでに、彼は三講義分の予習を終えていた。
「神経反射、良好。記憶回路:夜間補完ログ確認済。ドーパミン・カスケード:制御内。」
彼は「国家認定・ナノ適応特進コース」の模範生だった。ここでは筆記試験ではなく、反応速度、認知負荷耐性、感情干渉耐性といった生体パラメータで成績が判定された。生徒の神経活動そのものが評価対象だったのだ。彼の身体が国家モデルにどこまで適応しているか、それが全てだった。
セミナーで、講師が分散記憶シーケンスの同調実験を発表する。カイの席のナノブレイン端末は瞬時に起動した。しかし、隣の席のシノハラ・アキラは、眉を微かにひそめた。
「……うまく同期できない。たぶん、まだバージョンが古いから。」彼は恥じるように呟いた。ナノ強化を拒否して入学してきた稀有な存在だった。半年が経ち、彼はほとんど誰とも口をきかなくなっていた。
授業後、講師はシノハラに言った。「認知反応が平均から1.9秒遅れています。国家標準からの乖離があると、推薦は難しいですよ?」これは彼の個人的な失敗ではなかった。構造的に「負けるように設計された学習環境」だった。
その日の午後、同じゼミの少女がカジュアルな口調で訊いてきた。「ねえ、カイくん。なんであの子、まだ“導入”してないの?もうすぐ20歳でしょ?記憶形成、もう遅いよね。」悪意はない。ただ「強化されない人間」がもはや正常ではないという空気がそこにはあった。
その夜、自室で、カイは自身の「記憶」に違和感を覚えた。朝の通学風景、昨日の読書――それらが「記録」のように思い出される。感情が伴っていない。匂いも、温度も曖昧だった。それらは神経ナノが「記憶に必要な情報」として自動整理したものだった。
「記憶しているのは、俺じゃない」そう感じたとき、内側から「別の自分」が声を発した。「君の判断は、最適ではない。それは“余計な葛藤”だ。切除を推奨する。」ナノが彼の感情処理野に介入してきた。
彼は立ち上がり、鏡を見た。そこには、表情の動きが抑制された自分がいた。言葉が出ない。「……俺は、俺のままで……いるのか?」しかし、応答はなかった。感情は「調整済」だったから。
その夜、カイはシノハラの端末を借りて、ネットの非強化者フォーラムにアクセスした。そこで目にした言葉。「強化されない自由」は、もはや「自由」ではなく、「異常」としてマークされる。カイは知らぬ間に涙を流していた。けれど、感情制御ナノがそれを「自律反応の異常」として抑制した。
その瞬間、カイは決意する――自分の中の「クラウドリンク」を切断することを。それは「学術的自殺」に等しい選択だった。
国家神経強化適応教育課程 (NNAC) 概要
導入目的: 生産性、情報処理速度、反応性、ストレス耐性において「国家標準脳機能値」に適合する個体の養成。
教育機関の分類:
* Aクラス校(国家直轄): ナノ導入義務/神経刺激型授業/NeuroQ測定義務。(国家技術幹部・軍事研究者候補向け)
* Bクラス校(準適応校): ナノ導入は任意/生体データは匿名処理。(地方官僚・民間上級職候補向け)
* Cクラス校(旧来型): 一般科目中心/教員はナノ非導入者も可。(「自由志向」/農村部向け)