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第2章|記憶の境界線


視点:アレン・リー(元ナノ記憶改編プロジェクト責任者)


舞台:2058年・東京中央第一区/旧ヘリオス・メモリ社跡地/高層住宅街・夜


夢を見ていた。視界が青く染まる。それは、神経を介して脳が作り出す記憶データで、いつも光がぼんやりと滲んでいる。現実ではなく、脳が過去を再現するために作り出す、演出つきの幻影だ。草むらを走る白い靴が見えた。汗ばんだ小さな手が、彼にパズルのピースを渡す。「お父さん、これ、どこに入れると思う?」その声は優しかったが、音の響きが不自然に平坦だった。


ナノ技術で記憶を復元すると、音声パターンが標準化されてしまい、感情の起伏を人工的に作り直すしかなかったのだ。そして突然、画面が真っ白になる。記憶の再構築プログラムが、“倫理的な限界”に達したからだ。


彼はナノインターフェースに向かって、苦しそうにつぶやいた。「……これは、俺の記憶じゃない。俺の“感情”が、どこにも……残っていない……」


娘の名前を、誰かが呼んでいた。自分の声ではなかった。しかし、確かにそこにいたはずの子供がいた。夢の中で、彼女は笑い、何かを差し出そうとしていた。青い、木製のパズルのピース。


その瞬間、彼の目は覚め、腕がベッドの縁を無意識に探っていた。だが、そこには何もなかった。ただ、ぬるい光を放つ空調パネルの音がするだけ。彼の生活には、娘など最初から存在しないことになっていた。


アレン・リーは静かに起き上がった。広さ120平米、上級市民ランクC-4の標準的な集合住宅だ。AIアシスタントは、彼の体温上昇を感知し、すでにカフェイン量を調整した合成コーヒーを用意していた。だが、それを飲む気にはなれなかった。


洗面台の鏡に、細い血管が走る目が映る。「メモリ・スタビライザー、今日も使うか?」音声入力は拒否した。口に出せば、何かを決定的に失ってしまうような気がしたからだ。彼は知っていた。これは、“上書きされた記憶”が漏れ始めた兆候なのだ。


回想──「オルフェウス計画」の真実


数年前、**ナノ記憶治療プロジェクト「オルフェウス計画」**というものがあった。その主任技術者だったカスパー博士は、「記憶とは、過去をただ保存するものではない。未来を選ぶための計算なのだ」と言っていた。アレンは当時、このプロジェクトの責任者として、記憶を書き換えるためのナノアルゴリズムの設計に深く関わっていた。


この技術は、当初、戦争で心の傷を負った兵士や、家庭内暴力の被害者、さらには犯罪者までもが“更生”という名目で記憶を“最も良い状態に調整”される世界を作り出すはずだった。


しかし、いつからか、この計画の方向性は変わってしまった。政治家が「不適切な発言」をすると、その**発言の“記録ごと消え”**るようになり、ナノ技術による“精神の清掃”が始まったのだ。そして、アレン自身の娘の存在までもが、この記憶操作の対象となってしまったのだった。


現在──旧ヘリオス・メモリ社への潜入


アレンは古いクラウド鍵を引き出し、かつてのヘリオス社の残骸に残された記憶プログラムのデータベースにアクセスを試みる。場所は東京中央第一区の郊外にある、解体予定の旧記憶実験棟だ。現在は法律で立ち入りが禁止されており、もし入れば“電子記録への不正アクセス罪”に問われる。しかし、彼の手元には、当時自らこのシステムに埋め込んだ「管理者用バックドアプログラム」があった。夜、都市の騒音が静まる中、彼はマスクをかぶり、静かにその施設へと入っていった。


ヘリオス・メモリ社は、医療ナノ業界の中でも“最も倫理的である”という建前を掲げていた。「記憶再構築ナノ開発部(MemRe-Sect)」は、通常の医療セクションとは別の建物にあり、入退室には神経のパターン認証が必要だった。


特に第7フロアには「応用倫理技術部」があり、記憶操作が“合法な範囲内か”を審査する部署とされていた。しかし実際には、この部門は単なる**“形だけのチェック機関”に過ぎなかった。


自己否定が強まったり、記憶が人格と切り離されたりするなどの重大な懸念報告ですら、ナノAIによって自動的に「問題なし」と分類されてしまう状況だったのだ。


アレンがかつて提出したリスク報告書、「記憶を再構築した後、約3.6%の患者が“元の自分が死んだ感覚”を報告する傾向がある。感情に関する記憶と論理的な記憶がうまく統合されず、行動上は正常でも自己評価が崩壊する」という内容は、「社会生活に適応できなくなる問題はない」という理由で廃棄されたのだった。


記憶倫理監査機構からの拒絶

アレンが、自分の過去の記憶を再生する許可を申請した際の記録には、冷たい拒絶の言葉が並んでいた。


【記憶倫理監査機構 第6次改訂ナノ倫理プロトコル Ver 4.9】

* 申請内容:「自己の過去記憶再生」(幼少期の記録や家族の感情に関するデータを含む)

* 審査結果:拒否

* 理由:

* 記憶を再生することで、感情が暴走する危険性があるため。

* 社会生活に適応する上で有害と判断されるほど、過去を懐かしむ気持ちが強いため。

* 倫理規定C-16に違反する(家族の記憶は“個人のものではなく共有財産”と見なすため)。


そして、最後に添えられていたのは、一切の感情を排した結論だった。


「記憶を再び個人的に所有することは、公共の安全に対するリスクである。あなたは、すでに“適切に再構築された存在”です。」



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