第1章|無印(ノンタグ)たちの街
視点:ミナ・ハヤセ(医師)
舞台:東京湾岸・旧第七ブロック地下地区〈ロウシティ〉/2058年
視点:ミナ・ハヤセ(医師)
舞台:東京湾岸・旧第七ブロック地下地区〈ロウシティ〉/2058年
夜が明けきらないロウシティは、まるで動きの止まった機械のように静まり返っていた。それは、体の裏側にある、普段意識しない血管や神経が張り巡らされた図面のような場所だ。コンクリートの壁からは、排気口から出る水蒸気が汗のように滴り、LEDの街灯は、電流が流れる様子を示すように、赤く、バラバラに点滅している。まるで、すべてがある種のルールに従って動いているように見えた。
早瀬ミナは、汚れた金属の扉を押し開けた。マスクの下から、わずかに湿った息が漏れる。足元では、古びたナノ除染ゲートが低いノイズを発していた。このゲートは、公式な記録を残さない。つまり、ここに足を踏み入れても、誰にも知られることはないのだ。それこそが、この場所で活動するための、唯一にして最大の保証だった。
中は、診療所と呼ぶにはあまりにも質素な空間だった。棚には、ナノ技術が普及する前の抗生物質や、手動式の注射器、そして熱冷ましパッチが並んでいる。どれもが、過去の遺物のようなものだ。壁の一角には、白いペンキで無骨に書かれた文字があった。
「NO TAG, NO TRACE, NO CONTROL」(タグなし、記録なし、管理なし)
これは、この場所の理念を、簡潔に、しかしはっきりと示している。
診察ベッドの上には、小さな体が横たわっていた。少年――8歳か、9歳くらいだろうか。骨は細く、体温は異常に低い。ミナは脈を取りながら、彼の顔を観察した。まぶたがピクピクと痙攣し、汗腺は不自然に開いている。これは、普通の体の反応とは違う、何か異常なことが起きているサインだ。
「ナノが……暴走しているようね」
彼女がそうつぶやいた瞬間、ベッド脇の古いモニターが、甲高い警告音を発した。
「異常シグナル:強制再構築プロトコル作動中」
ミナは、その表示を見て顔をしかめた。そんなことはありえない。国が配るナノボットが、勝手に「再構築」を始めるなんて、設計上、想定されていないはずだ。しかし、この少年の体内のナノは、明らかに独自のプログラムを動かし、何かを「修復」しようとしていた。それは、単なる病気とは違う、体の構造自体を変えようとするものだ。彼の脳の神経網を組み替えようとしている。それは、一種の改造、あるいは進化と呼べるのかもしれない。
ミナは棚から「ナノ抑制用キレート剤」を取り出し、ためらうことなく少年の静脈に注射した。
「こんな薬、都市部でしか使われないはずなのに……一体、誰が、この子に施したの?」
答えはなかった。少年は目を閉じたまま、わずかに指を動かした。その指先が、空中で何かをなぞるように動く。まるで、何かを再現しているかのように。それは、記憶か、あるいは命令か。いずれにしても、それは情報としての形を持っていた。
その指先が描いたもの――
それは、まるで夢遊病者のように、無意識に空気をなぞる動きだった。しかし、その動きが示す軌跡は、単なる意味のないランダムなものではない。そこに形成されていたのは、**ナノ医療技術の、まだプロトタイプ段階にある「クラウド制御構文」**の、極めて詳細な論理構造だった。まるで、彼の脳が、意識を介さずに直接情報を出力しているかのように。