7.交わされたのは、契約か、運命か
夕暮れ時。
戦場を後にした一行は、近くの村へとたどり着いていた。
斜めに傾いた赤い陽が、瓦屋根を黄金色に染めている。
村の宿はこぢんまりとしていたが、清潔で、疲れた身体にはありがたかった。
一行は部屋を確保し、宿の食堂に集まっていた。
木製のテーブルに並んだ素朴な料理。
温かいパンにシチュー、素焼きのマグに注がれた果実酒。
その席で――。
「エリーナヴィアス嬢、ここは何をしに?」
向かいに座るリックウェンが、ふと尋ねた。
黒い瞳は静かに、けれどどこか柔らかく彼女を見つめている。
その視線に、エリーナヴィアスは一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
けれど、すぐに覚悟を決めた顔で背筋を伸ばす。
「私と……契約結婚していただきたくて、参りました」
声が少しだけ震えたが、言い切った。
テーブルの向こうで、リックウェンの眉がぴくりと動く。
「……なんだと?」
低い声。
けれど、怒りではない。
どこか驚いたような、むしろ微笑ましく思っているような響きだった。
「一か月前に、お手紙をお送りしましたが……返事がなかったもので。
それで、こうして直接……」
エリーナヴィアスは小さく唇を噛む。
手を膝の上でぎゅっと握り締めながら、必死に冷静を装った。
するとリックウェンは、ふっと小さく笑った。
「わざわざ、あんな危険な地まで?」
「……えぇ」
静かに、でもはっきりと答える。
リックウェンの黒い瞳が、優しく細められた。
まるで、愛おしいものを見るかのように。
「ははっ……で、どんな契約をしたいんだ?」
その時、彼の瞳はもう、完全に"彼女だけ"を映していた。
あたたかく、包み込むような眼差し。
(な、なによ、その目……)
エリーナヴィアスは顔を熱くしながらも、慌てて手を少し上げる。
「サリー」
呼びかけると、黒緑のセミロングの髪に、緑の瞳を持つ真面目そうな女性が、静かに近づいてきた。
手には、一枚の契約書を携えて。
サリーは無言でリックウェンに契約書を差し出す。
リックウェンはそれを受け取り、真剣な面持ちで目を通した。
一行ずつ、ゆっくりと。
そこには、こう記されていた。
◇◆◇◆◇
1.お互いの自由には干渉しないこと。
2.私の魔力を一切、利用しようとしないこと。
3.互いに秘密を尊重すること。
4.必要なら、いつでも離婚できること。
5.接触を求めないこと。
◇◆◇◆◇
読み終えたリックウェンは、静かに顔を上げた。
「……四と五は、同意できない」
「えっ?」
エリーナヴィアスは思わず目を見開いた。
「結婚するなら、離婚はしない。
それに――子がほしい」
「こ、子……!?」
衝撃に、エリーナヴィアスは一瞬、言葉を失った。
(……まぁ、そうよね)
胸の中で小さくため息をつく。
(魔法が使えない時点で、神に愛されなかったと思われて、誰も近づこうとしない。
魔力の低い平民ですら、魔力なしの血を嫌がる世界。
私しかいない。……当然、子どもを望むわよね)
冷静に考えれば納得できた。
(……まぁ、子供なら何度か産んだ経験もあるし。一人や二人くらい、どうってことないわ)
それよりも、一番大事なのは。
(一番重要な、一番絶対に譲れない一と二――
私の自由と、魔力を搾取しないこと)
それを守ってくれるなら、悪い取引ではない。
そう、思いかけたとき――。
「いや、一も厳しいかもしれない」
「はいっ!?」
反射的に、エリーナヴィアスは素っ頓狂な声を上げていた。
リックウェンは、困ったように、けれどどこか楽しそうに笑う。
「……少しだけ、干渉したくなるかもしれない」
その言葉に、エリーナヴィアスは顔が真っ赤に染まるのを感じた。
(な、なにそれ……)
胸がドクンと跳ねる。
必死に冷静を装いながら、唇を引き結び、ぎこちなく問う。
「ど、どういう意味ですか」
リックウェンは一瞬だけ、考えるように目を伏せた。
そして、すぐに何でもない顔で――まるで軽い提案でもするかのように、静かに口を開く。
「たとえば――」
彼は指先で契約書の紙面を軽くなぞった。
「“互いの自由を尊重する”という一文。
これを、“互いに無理のない範囲で相手を尊重する”に変えるのはどうだ?」
さらりと言った。
ごく自然に、優しい笑顔さえ浮かべながら。
(……え? それ、結局、干渉し放題じゃない?)
心の中で突っ込みつつも、
リックウェンの柔らかな物言いに、エリーナヴィアスは否定しきれなかった。
さらに、リックウェンは続ける。
「無理に行動を縛ったり、無理やり命令したりするつもりはない。
けれど、時々……君のことを気にかけたい。
それだけだ」
柔らかく、落ち着いた声。
まるで「普通の優しさですよ?」と言わんばかりだった。
けれど――。
その奥に、言葉にされない強い意志を、エリーナヴィアスは感じ取った。
(……この人、絶対、私を放っておく気ないわね)
何となく、直感でわかる。
けれど、それをどうこう言う気力は、今の彼女にはなかった。
リックウェンの黒い瞳が、まっすぐに彼女を見つめている。
焦らず、押しつけず、ただ静かに。
それは、不思議なほど心地よかった。
エリーナヴィアスは、ため息混じりに小さく呟く。
「……“無理のない範囲”なら……いいわ」
リックウェンの唇が、かすかに上がった。
まるで、狙い通りとでも言いたげに。
しかし彼は、そんな本音を微塵も表に出さず、
ただ静かに、優しく頷いた。
「ありがとう」
その声は、ひどくあたたかくて――
エリーナヴィアスはまた、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。




