34.君に出会うための過去だった
城の本丸の扉を抜けると、廊下の空気がひんやりと肌を撫でた。
赤絨毯が足音を吸い込み、天井から吊るされた魔灯が静かに瞬いている。
私は、その整った廊下の雰囲気に圧倒されつつ、リックウェンの隣を歩いていた。
「……案外、慕われてるのね。あなた」
私の何気ない言葉に、リックはふと足を止め、こちらを見た。
すぐに、どこか遠くを見るような目になる。
「いや……慕われ出したのは、君との婚約が決まってからだ」
「え……なに、それ。じゃあ、それまでは?」
思わず問い返した声に、リックは小さく息をついた。
「冷遇されていたよ。領民からも、兵士からも。
道で石を投げられたこともあった。
“神に見放された辺境の男”……そう呼ばれてな」
冗談のような口調だったけれど、その声音には確かな陰があった。
「嘘、でしょう……? だって……そんな、ひどすぎる」
私は立ち止まって彼を見つめた。
けれど彼は、少しだけ肩をすくめて前を向いたままだった。
「そんなものだろう。人は神に愛された者を崇め、
愛されなかった者には石を投げる。理由なんて、後からついてくるものさ」
その言葉は、あまりにも静かで――逆に、胸に突き刺さる。
私は気づけば、彼の後ろ姿に問いかけていた。
「……じゃあ、あなたは。
これまで、何のために戦ってきたの?」
問いかけた自分の声が、少しだけ震えていたのがわかった。
リックは歩を止め、振り返らずにぽつりと答えた。
「……今まで戦い、命を落としていった者たちのためだ。
そして……今日まで、俺を生かしてくれた、数少ない仲間のためだな」
それだけだった。
それだけなのに、どうしてこんなにも重たいのだろう。
私は胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられるのを感じながら、黙って彼の背を見つめた。
(……聞けば聞くほど、この人のことがわからなくなる)
(私は、結婚したというのに……この男のことを、何も知らない。
知ったつもりで、すべて見えてるような気になってただけ)
そんな現実を、今さら思い知らされたようで――
ふと足元の赤絨毯すら、自分には場違いなもののように思えてしまった。
(……こんな人を、私は“利用しよう”として近づいたのよね)
(いったい私は、何様なの……。元旦那たちと、何が違うというの……?)
胸の奥が、きゅうっと締めつけられていく。
罪悪感と自己嫌悪が混ざり合って、呼吸が少しだけ浅くなる。
無意識に顔をしかめていた私の耳に、ふわりと――
あの、優しい鼻歌が届いた。
「……どうして」
立ち止まって、ぽつりと問うと、隣を歩くリックは私を一瞥しながら静かに答えた。
「そんな顔をするな。
君が来てくれた瞬間に――俺の世界は変わったんだ。
むしろ、俺の一生分の運を“君を手に入れるために”使ったのかもしれない……そう思ってる」
「それ……普通は結婚して何年も経ってから言うセリフじゃない?」
私は思わず、苦笑しながらツッコミを入れる。
「重みゼロよ。言ってるタイミングが早すぎるの」
するとリックは肩をすくめて、照れもせずに言った。
「ははっ。確かにな。でも――俺は本気だよ」
そう言って、すっと私の腰に手を回してくる。
「ちょ、ちょっと、前から言おうと思ってたんだけど――」
「ん?」
「……同意もしてないのに、接触しすぎじゃない?」
「夫婦だろう? これくらい、同意してくれてもいいだろう」
「いやよ!!」
きっぱりと言い切った瞬間、鼻歌が再開される。
「~~♪」
「せ、せこいわ!! ……いいわよ! 好きにすればいいじゃないっ!!」
(ぐっ……また、同意してしまった……!)
私が顔を赤らめていると、彼は楽しそうに笑いながら、ひょいと私の体を抱き上げた。
「はっはっは」
「ちょっ!? な、なにしてるのよ!? 歩けるわよ!」
「俺の大切な妻を、しっかりとエスコートしているだけだ。」
「……全く。これじゃ契約書の意味がないじゃない」
呆れたように言うと、彼はにやりと笑って答えた。
「安心してくれ。契約書は破棄しない。
……破棄したら、君に離婚されてしまうからな」
「なっ……!」
唖然としながら、私は彼の胸元を軽く叩いた。
けれど、その力には全然本気が入っていなかった。
(……まぁ、契約が守られるなら、いいわ。
私の魔力を搾取しないって、誓ってくれたわけだし)
胸の奥でゆらゆらと揺れていた不安が、彼の鼻歌に溶けていくようだった。
その音色はまるで、私の中のさざ波をひとつずつ撫でて、眠らせていくようで――。
ふと、彼の腕の中で小さく体勢を変えながら問いかけた。
「ねぇ……どこへ向かってるの?」
リックウェンは視線を前に向けたまま、少しぶっきらぼうに答える。
「……食堂だ。腹を満たしておかないとな」
「もうそんな時間なのね」
言われてみれば、体が空腹を思い出したかのように小さく鳴る。
けれど、窓も天窓もないこの城の中では、時間の流れすら曖昧だった。
「空が見えなくて分かりづらいよな。俺も幼い頃はそうだった」
ぽつりと呟くその声は、どこか遠い記憶をなぞっているようで。
「へぇ……幼い頃ね。」
(リックの幼少期ってどんな感じだったのかしら)
広くて無骨な廊下に、ふたりの足音だけが小さく響いていく。
(……不思議。こんなに大きな腕に抱えられてるのに、安心するなんて。
ほんの半年前までは、こんな未来がくるなんて思いもしなかったのに)
そんな想いが胸にぽつぽつと浮かびはじめたころ――
リックは、ほんの少しだけ声を低めて言った。
「ちゃんと食っておけよ。……今日は、夜も長くなる」
その言い方があまりに真面目で、からかいの色も一切ないせいで――
私は思わず顔を赤らめ、ぷいっとそっぽを向いた。
「……っ、言い方! そういうのは、もうちょっと、雰囲気を選んで……!」
「ははっ、悪い。俺なりに紳士的に言ったつもりだったんだが」
「うそよ絶対……っ!」
(ほんと、もう……。この調子で、あの夜を迎えるなんて。どうなるのかしら……)




