29.旋律に沈む、わたしの意思
馬車まで、あと十歩ほどというところだった。
そのときだった。
突然、目の前にひとりの男が立ちはだかった。
銀の髪、すらりとした長身、そして――
感情を読ませない、紫の瞳。
「……っ!!!」
足が、止まった。
声は出ない。喉が、ぎゅっと締めつけられる。
(アイズ……レギオン)
回帰の中でも、もっとも最悪だった“記憶”が脳裏をよぎる。
その瞬間、手足の感覚が冷えた。
彼は一歩だけ前に出て、ぎこちなく口を開きかけた。
「……あの……」
そのときだった。
「――ヴィア! 待たせたな」
馴染みのある低くて力強い声が、背後から届いた。
私はびくりと肩を揺らし、振り返る。
「リ……リック……!」
駆け寄ってくる彼の姿に、喉の奥からやっと呼吸が戻ってきた。
リックウェンは私の横にすっと立ち、アイズに目を向ける。
「これは――センドリード公子」
ごく自然な、けれど形式に則った完璧な礼儀。
「……あ、あぁ……」
アイズは戸惑ったように返したが、すぐに視線を外した。
リックウェンは何も言わず、私の背中にそっと手を添える。
私は、それにすがるように身を預けた。
「では――失礼」
それだけ告げて、彼は私を守るように導きながら馬車へと乗り込ませた。
サリーとディンヒル卿は、もう一台の荷物用の馬車に先に向かっている。
馬車の扉が閉まった瞬間、ようやく私は力を抜いた。
「……ありがとう。助かったわ」
肩を落としながら言うと、リックはさらりと返す。
「どういたしまして。妻を守るのは夫の役目だからな」
私は苦笑いを浮かべた。
「……まだ結婚してないですけどね」
「ははっ。そうだったな」
窓の外を見ながら、彼がぽつりと訊ねる。
「家まで……同行しても?」
「……えぇ。お願いするわ」
その返事を聞いた瞬間、馬車の中に――
ふいに、あの音が響き始めた。
リックウェンの、鼻歌。
「ちょっと……鼻歌はやめてよ……」
私は眉をひそめながら、彼を睨む。
「どうして?」
「……どうしてって、あなた……
これ、聞いてると、何も考えられなくなるのよ……」
心地よくて、頭がぼんやりして、
全部、どうでもよくなってしまうくらいに。
「ふーん……」
彼は興味深げに私を見つめると、構わず鼻歌を続けた。
穏やかなメロディが、馬車の中に優しく広がっていく。
(……全くもう)
私は、ため息をひとつ吐いた。
まだほんの少し胸の奥がざわついているはずなのに、
なぜか、肩の力が――ふっと抜けていく。
(……やっぱり、これ……魔法みたいよね)
心の奥でそう思いながらも、
私は抗うことを諦めたように、馬車のクッションに体を預けた。
「~♪」
リックウェンの鼻歌が、静かに続いている。
旋律は単純なのに、どうしようもなく耳に馴染んで、優しくて、離れない。
ふと、私はその声に言葉を投げた。
「ねぇ、歌は歌えないの?」
彼は少し眉を上げて、こちらを見た。
「……歌?」
「そう。オペラみたいな、普通の“歌”。
言葉のあるものとか、ちゃんとした曲を」
リックウェンは視線を窓の外に戻し、少し間を置いて答えた。
「……それはできないな」
その返しは、なんだか唐突で、きっぱりとしていた。
「どうして?」
私は、さりげなく問い返す。
興味というより、本能的に“引っかかった”のだ。
けれど彼は、低く短く――
「どうしても、だ」
それ以上は何も言わなかった。
私はそれ以上追及しなかった。
けれど、心のどこかに、ひとつだけ“疑問”が残る。
(……どうして?)
(言葉のある歌は、何かが“起きる”から?
それとも……誰かを本当に壊してしまうような力でもあるの?)
でも、その問いは、
やがて鼻歌のやわらかい波に飲まれて、遠ざかっていった。
気づけば、馬車は屋敷の門をくぐっていた。
揺れも、騒がしさもなく、ただ“あっという間”に着いていた気がする。
(……あれ?)
今日、街で何があったっけ――
アイズに会ったことも、クレイシスの執着も、
なんだか、全部遠い出来事みたいに思えてくる。
そのかわり、はっきりと胸に残っていたのは――
リックウェンの、あの不思議な鼻歌のメロディだけだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
部屋に戻ると、私はゆっくりとドレスを脱ぎ捨て、ナイトガウンに着替えた。
そのまま、ベッドの上に倒れ込むようにしてうつぶせになる。
目を閉じても、どこか頭の奥にまだ、リックウェンの鼻歌が残っていた。
(……魔法、よね。絶対)
そう言い聞かせるように、私は枕に頬をこすりつける。
それなのに、不思議とその響きは嫌じゃなかった。むしろ――
私は横になったまま、傍らの小机に手を伸ばす。
そこには、リックウェンからもらった魔石のオルゴール。
蓋をそっと開け、くぼみに触れると音がして、旋律が流れ出した。
あの時と同じ、彼の鼻歌が、そのまま旋律になっている。
音色はやわらかくて、温かくて、まるで毛布のように私を包み込んでくる。
(……また、恋に盲目になってるの? 私)
ふっと、苦笑いがもれる。
(いや……違うわ。これは魔法のせい。きっと、そうに違いない)
でも、だったら――それでもいいのかもしれない。
この音を聞いていれば、心が穏やかになる。
不安も、寂しさも、何もかもが溶けていく。
それなら――それでも、いいのかもしれない。
私は仰向けになり、天井をぼんやりと見つめながら、
胸元でオルゴールを抱きしめた。
そのまま、呟くように、問いかける。
「……あなたは、いったい……どの神に、愛されているの?」
誰にも聞かれないはずのその声が、
まるでオルゴールの音に吸い込まれていくような気がした。
そして私は――
心地よさに抗うこともできず、静かに瞼を閉じた。




