28.もう、あなたを振り返らない
昼下がりの帝都は、晴れ渡っていた。
石畳を照らす陽光はやわらかで、行き交う人々の足音もどこか軽やか――
……のはず、だった。
(……妙ね)
私は通りを歩きながら、ふと違和感を覚えた。
帝都の中心街だというのに、人通りがやけに少ない。
いつもなら、露店の呼び声や通りすがりの声がひしめいているのに、
今日はまるで“何かに備えて、避けられている”ような、そんな静けさ。
その背後に、サリーとディンヒル卿が控えている。
そして、両手いっぱいの荷物を抱えているのは、もちろん――
「……アースも連れてくればよかったわね」
私がふと漏らすと、ディンヒル卿がぴくりと反応した。
「それは、私ひとりでは力不足という意味でしょうか?」
やや不服そうな声。けれど、きちんと荷物は持っている。
「その逆よ」
私はくすりと笑った。
「ディンヒル卿が優秀すぎるから、いざというときには荷物を全部放り出してでも、
私を守ろうとするだろうなって、そう思ったの」
「……まるで、何か“起こる”かのような口ぶりですね」
「不安なのよ。……一度、馬車に戻りましょう」
そう告げて歩を止めると、私はディンヒル卿の腕からいくつかの荷物を受け取り、
それをサリーへ手渡した。
「……重要そうなものは、サリーに持ってもらうわ」
サリーは頷きながら、荷物を両手で丁寧に受け取る。
その瞬間だった。
「――エリヴィ! 奇遇だね。こんなところで会えるなんて!」
華やかな声とともに、ふいに通りの向こうから誰かが駆け寄ってくる。
(……来たわね)
金髪が陽にきらめき、碧い瞳がまっすぐ私を見ている。
皇太子――クレイシス・グヴレシナス。
(何が“偶然”よ……。こんな通りで会うわけがないわ)
私は内心で冷笑しながらも、表情を崩さずにいた。
そのとき、ドサッ――と小さな音がして、
ディンヒル卿が私の前へ一歩、庇うように立った。
「……ディンヒル卿。荷物」
「あっ、すみません」
彼はすぐに姿勢を戻し、慌てて落とした袋を拾い上げる。
私は一歩進み、皇太子へと丁寧に一礼した。
「グヴレシナス皇太子殿下に、謹んでご挨拶申し上げます」
完璧な貴族令嬢の姿勢で、形通りの挨拶。
けれど――その堅さに、クレイシスは困ったように顔をしかめた。
「ちょっ……エリヴィ、僕と君の仲じゃないか。
そんな格式ばった挨拶はやめてくれよ」
私は静かに微笑んで――冷ややかに言い返す。
「いえ、これが私と殿下との“距離”でございます」
「……どうしてしまったんだい? 学園時代はもっと……
ほら、二人きりで街に出たり、一緒の部屋で過ごしたりしたじゃないか」
「そうですね。――ですが、そんな昔の話、忘れてしまいました」
「えぇ? なんだって?」
困惑した様子で笑う彼に、私は言った。
毅然と、どこまでも澄んだ声で。
「……殿下、申し訳ございません。
私は、もう婚約した身です。これ以上、軽率な言葉や接触は――お控えくださいませ」
静かに、しかし一切の余地なく告げると、
クレイシスの眉がひくりと動いた。
「エリヴィ……たかが婚約じゃないか」
どこか拗ねたような声音。
「そんな“大人みたいな”堅いこと、言うなよ」
その言葉に、私はかすかに目を細める。
「……“大人”みたい、ではありません。
殿下に下心がある以上、柔らかな対応は致しかねます」
ピシャリと返すと、彼は一瞬、口を開いたまま言葉を失った。
「し、下心なんてっ……! いったい何を言ってるんだい、僕はただ……そうだ!」
慌てて誤魔化すように、クレイシスが街路の一角を指さす。
「この近くに、あのチョコレートの専門店があったよね?
エリヴィ、チョコレートが大好きだったじゃないか。行こう、懐かしいだろう?」
にこりと笑って、親しげに手を差し出す。
私は一歩だけ後ずさり、肩越しにディンヒル卿とサリーの様子を確認する。
二人とも、さりげなく私を囲うように立ち位置を調整していた。
「……そうでしたっけ」
私は淡々と答え、視線だけでクレイシスを見据える。
「――そろそろ、失礼しますわ。
これ以上ここにいては、“人払い”されていることも相まって、
格好のゴシップ記事の的になってしまいますもの」
その一言に、彼の表情が曇った。
(あら、“人払い”に気づいていないとでも?)
私は小さく溜息をつき、背筋を伸ばす。
そして、ふっと目線を上げ、何気ない口調で――けれどしっかりと告げる。
「ドーリ、エルン」
声をかけた瞬間、周囲の空気が揺れた。
「殿下を……お連れ帰りなさい」
まるで舞台装置のように、陰からふたりの人影が現れる。
黒衣に身を包み、視線だけで周囲を制していた、皇太子の護衛たち。
「……何故、我々の名を……」
ドーリと呼ばれた男が、驚きに目を見開く。
エルンは無言で、しかし表情をわずかに強ばらせた。
「殿下、そろそろお時間です。……戻りましょう」
控えめながら、確かな圧力を込めた声。
クレイシスは唇を噛み、しばし私を見つめていたが――
やがて小さく舌打ちをして、ふいと視線を逸らした。
「……また話そう、エリヴィ」
その声に、私は軽く一礼を返した。
「殿下におかれましては、ご自愛くださいませ」
完璧な礼儀を崩さず、淡々と告げる。
彼が何を求めていようと、私はもう振り返らない。
その瞬間――
通りの向こうから、ひゅうと風が吹き抜けた。
春の陽光をまとった柔らかな風だったのに、
なぜか頬に触れたそれは、妙に冷たかった。
(……懐かしいわね)
私はふと、影に戻っていったドーリとエルンの姿を思い出す。
(回帰前の――一度目の人生では、よく私を守ってくれたっけ)
常に私の背後を固め、王都での喧騒から遠ざけてくれたふたり。
どこか兄のようで、味方でいてくれた存在。
けれど、今の私は――
(……クレイシス。あなたの隣に、私はもう相応しくない)
淡い光の中、彼の後ろ姿が遠ざかっていく。
(私の存在が……あなたを“壊してしまう”みたいだから)
回帰を重ねるたび、確信していった。
私があの人に近づくたびに、彼は少しずつ傾いていく。
純粋さも、理想も、王としての気高さすらも――
だから。
私はもう、手を伸ばさない。
そう決めた。




