26.甘い呪いと、疑いの朝
気づけば、朝になっていた。
窓から差し込む光が、寝台の天蓋をうっすらと照らしている。
私はぼんやりと天井を見つめたまま、少しずつ昨夜の記憶を追いかける。
(……あれ?)
あんなにたくさん話したはずなのに――
その後のことが、驚くほど、思い出せなかった。
(……やられたわ)
布団の中で、そっと拳を握る。
(まさか、本当に……あれが“魔法”だったなんて)
鼻歌。
ただの癖かと思っていた、あの音が――
私の心を、こんなにも容易く“緩めてしまった”。
……でも。
(契約がある以上、私は……魔力を搾取されるような、いつもの失敗にはならないはずよ)
あの男と結んだ契約は、たしかに“私の意志を守るもの”だった。
けれど。
(……精神に作用する魔法だったら?)
(……意思そのものを、曲げられたら?)
ベッドの上で、ゆっくりと身体を起こす。
長い髪が肩に落ちる感覚も、なぜか今朝は重たく感じた。
ふと、契約書のことを思い出す。
リックウェンと契約内容を詰めるために向かい合ったとき――
彼は、さりげなく鼻歌を口ずさんでいた。
私は気にも留めず、そのまま相談を続けていたけれど……
(……気づくべきだった)
彼の言葉に、頷きすぎた。
少しずつ譲って、結果、まるで“思ってもみなかった条件”が追加されていた。
あのときは、何となく納得した気になっていたけれど――
(おかしいのよ。私は、あんな契約にするつもりじゃなかった)
私はゆっくりと起き上がり、膝を抱えてベッドに座る。
(……どうするべきかしら)
契約は、交わした。
形式的には、問題ない。私の魔力も、一応は守られている。
でも――
(もし、“精神”に作用する魔法だったら……)
その“私の意思”自体を、変えられていたら?
ゾクリと背筋が冷たくなる。
(そうなれば、契約なんて……意味がない)
私は立ち上がり、寝巻のまま書棚へと向かった。
薄明かりの中、指先が慣れた動きで魔導事典を引き出す。
革表紙の厚い一冊を開き、ページを繰る。
――神々の恩恵と発動条件。
歌、音、旋律……それらはやはり、“芸術の神”に分類されていた。
癒し、空間の浄化、心の鎮静。
音による魔力の伝達と感情の調整。
(……でも)
私はページの記述を睨みつける。
(“精神を操作する”なんて、どこにも書かれてない)
美しい音色を響かせ、空間を満たす――
それが限界だとされている。
あの、心をねじ伏せるような“安らぎ”は、
記述のどこにも存在していなかった。
(……じゃあ、別の神の恩恵?)
私はさらにページをめくる。
そして、“精神作用”という言葉を追いながら、指が止まる。
そこには――“色欲の神”の名があった。
(……色欲)
その名前を見ただけで、思わず背筋がこわばった。
(この神の祝福を受けた者は、たしか――
魅了、欲情、支配……精神的に人を惹きつける力を持つ)
でも、よくあるのは娼館。
または外交官や女官として重宝される者たち。
そういった者が、その神の恩恵を受けている例が多い。
(……まさか、リックが?)
あの無口で不器用な彼が。
人を誘惑するような色気も見せない、むしろ近寄りがたい彼が――
(……色欲の神に、愛されてる?)
信じられない。けれど、信じたくないだけなのかもしれない。
あの鼻歌が、誰にも聞こえず、私の中にだけ響くのなら――
それはもう、ただの“音”じゃない。
(本当に……彼は、何者なの?)
ぼんやりとそんなことを考えていると、
扉の向こうから、控えめなノック音が響いた。
「お嬢様、朝の支度に参りました」
サリーの澄んだ声が聞こえる。
私は小さく返事をして、辞書を本棚にしまう。
まだ体の奥に、夜の余韻がじわりと残っている気がする。
でも、そんなことを引きずっている場合じゃない。
サリーに手伝われながら、身支度を整えていく。
ドレスを纏い、髪をまとめ、靴を履く。
「……ありがとう、サリー」
支度を終え、私は小さく礼を言って、食堂へ向かった。
屋敷の廊下を進み、扉を開けると――
そこには、すでに朝の食卓が整えられていた。
長いテーブルを囲んで、両親と兄たち、そして――リックウェン。
彼らはすでに食事を始めており、しかも驚くほど親しげに談笑していた。
父が肩を叩き、母が微笑み、兄たちも楽しげに相槌を打っている。
(……なるほど)
私は静かに思う。
(両親にも、兄にも……使ってるわけね)
鼻歌。
いや、あれはきっと、単なる癖なんかじゃない。
あの穏やかすぎる空気――
誰もがリックウェンに好意的になっているこの異様な状況。
私だけが、違和感に気づいている。
(……やっぱり、ただの“魔法”じゃないわ)
けれど、そんなことを顔に出すわけにはいかない。
私は作り笑いを浮かべて、軽く頭を下げた。
「おはようございます」
テーブルにつき、用意された皿の前に腰を下ろす。
ナイフとフォークを手に取りながら、
まるで何も知らないふりをして、朝食を口に運び始めた。
でも、食事の味は――
不思議なほど、何も感じなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
朝食が終わり、私は玄関までリックウェンを見送ることになった。
歩きながらも、心の中にはまだ、昨夜から続くざわつきが残っている。
だから、玄関扉の前まで来たとき、私は立ち止まり――彼の背に問いかけた。
「……家族に、魔法を使ったの?」
彼は足を止めた。
背を向けたまま、ほんの一瞬だけ間を置いてから、振り返る。
「……まさか。使っていない」
低く、はっきりとした声だった。
「俺に、そこまでの能力はないと思ってくれていい」
その目は、曇りもせず真っ直ぐだったけれど……
私はすぐに返す。
「……どうだか」
疑念がぬぐいきれない。
あれだけ親しくなかったはずの両親と兄たちが、
彼をあんなに自然に受け入れているなんて――普通じゃない。
けれど、彼は肩をすくめながら穏やかに言った。
「信じられないなら、治癒師にでも頼んでみたらどうだ。解除の検査ぐらいはしてもらえる」
(……そこまで言うなら、使ってないのかしら。でも……)
両親の笑い方、兄たちの目の色――
どうしても、私が知っている“いつもの家族”と、どこか違っていた。
私の沈黙に、リックが続ける。
「君は……誤解していると思う」
その声は、鼻歌のときのような魔力の響きこそなかったけれど、
どこか不思議な温かさを帯びていた。
「前にも言おうとしたが……ご両親は、君のことを本当に大切に思っている。
いつも心配している。それは兄君たちも同じだ」
私は思わず目を伏せた。
リックは、私の顔を覗き込むように一歩近づき――
さらりと、私の前髪を指先で払うと、耳にそっとかけた。
その指先が、こそばゆくて、
けれど不思議と、嫌じゃなかった。
「……君が何度か繰り返してきた人生の中で、
もし家族と何か“食い違い”があったとすれば――」
彼は、穏やかに、だけどどこか鋭く言葉を差し込む。
「……それは“対話をしてこなかったから”じゃないのか?」
ギクリとした。
「……聞いたところ、君は“恋に夢中になるタイプ”らしいからな」
「っ……!」
言い返したかった。
でも、反論できる材料が、ひとつも思いつかなかった。
「よく考えてみるといい。俺は、しばらく帝都にいる」
「……え?」
「君のご両親が、屋敷を買ってくださったからな」
「いつの間に!? 何それ、私聞いてないんだけど!?」
驚きで声が裏返った。
けれど、リックはくすりとも笑わず――ただ、静かに一礼した。
「――またな」
そして、私の手をとり、手の甲にそっと口づける。
ほんの一瞬の仕草。
けれど、その指先が触れた場所が、じんわりと熱くなった気がした。
彼はそれきり、扉の外へと歩き出していった。
私はその後ろ姿を見つめながら、胸の奥がまたひとつ、音を立てて揺れたのを感じていた。




