25.あなたの歌に、私は堕ちた
リックウェンがふと、真剣な目で私を見た。
「……これが何かわかっているのか?」
「え?」
急に真顔で尋ねられて、私は少し戸惑った。
「オルゴール……よね?」
問い返したそのとき――
「も〜う!こんなところでコソコソおしゃべりしてないで、さっさと中に入ってしまいなさいよ〜!」
軽快で調子のいい声が背後から飛んできた。
振り返る間もなく、リックウェンの背中がドンと押される。
「うわっ……!」
バランスを崩したリックがそのまま前のめりに倒れ込み――
咄嗟に、彼の片腕が私の腰を支えた。
もう片方の手は床に突き、私を庇うようにしながらも、
二人の身体の距離はぎりぎりに近く、彼の体重がすぐそこにかかっていた。
「――――っ!」
顔が、近い。
耳元でリックの吐息が聞こえるほどの距離。
私は一瞬で体が固まってしまった。
「…………ご、ごめんなさい。うちの母が……っ」
どうにか言葉を絞り出すと、リックは私の上で苦笑しながら小さく呟いた。
「……いや、俺の不注意だ……」
慎重に身体を起こしながら、なんとか体勢を戻す。
お互い、どこか気まずい沈黙が流れる。
しばらくして、リックがようやく口を開いた。
「では……失礼する」
そう言って、扉へと手を伸ばす――が。
「……っ」
かちゃり。ノブを回しても、開かない。
「……どうしたの?」
「……開かない」
「え!? ちょっと待って、まさか……」
(お母様ったら……まさか鍵を!?)
一気に血の気が引く思いで扉に駆け寄る。
「……開けてくださいっ!?」
返事はない。
……と思ったら、外で何かがごそごそと動く気配。
――というか、押さえつけてる?
(えっ、えええ!?)
ドアの向こうでは、ディンヒル卿が無表情で、しかし全力で扉を抑えていた。
「……蹴破るか?」
リックが静かに、でも本気で言った。
「ちょっ……やめて、ちょっと待って!
多分……そのうち、どこか行くと思うからっ……!」
私は必死に止めて、深呼吸。
そしてソファに腰を下ろし、落ち着いたふりで言った。
「……座ってください」
リックも、どこか申し訳なさそうに頷き、向かいのソファに腰を下ろす。
「……すまない」
静かな声。けれど、空気は完全に落ち着かない。
(まったく……お母様ったら。どうせ、どこかでずっと見張ってたんでしょうね)
(というか……回帰前のお母様は、こんな強引なことするような人じゃなかったのに……)
(どうしちゃったのよ、もう……)
思わず頭を抱えそうになる。
「さっき、“これ”が何かわかると言っていたな」
リックが、静かに問いかけてくる。
「えぇ、オルゴールでしょ? これ」
私は軽く笑って誤魔化しながら、箱の蓋を開いた。
オルゴールの側面にある小さな凹みに指を触れると、淡い光が灯り――
部屋の空気を震わせるように、あの旋律が流れ始めた。
……彼が、よく鼻歌で歌っていた、あのメロディだった。
たったひとつの音が始まっただけで、
さっきまで騒がしかった頭の中が、すっと静かになっていく。
肩から力が抜け、まぶたの裏に優しい霧が広がるような感覚。
(……麻薬だわ、これ)
抗えない。
甘く、優しく、包み込まれていく気がする。
「……綺麗……」
そう呟くと、リックがぽつりと言った。
「そのオルゴールは……この世で、たったひとつしかないはずだ」
「え?」
私は顔を上げて、彼を見る。
「差し支えなければ……どこで見たことがあるのか、教えてくれないか?」
その問いに、私は一瞬で冷や汗をかいた。
(どこで、って――)
喉元がきゅっと締め付けられる。
(……しまった)
やっと気づいた。
未来でしか知りえない情報を、私は口にしてしまっていたのだ。
リックは、私の沈黙を見て、ふと鼻歌を口ずさみ始めた。
「……どうして……?」
声が震える。
歌が流れ込むたびに、思考が霞んでいく。
意識がゆるやかに溶かされ、心の奥に貼りつけていた仮面が――ひとつ、またひとつと剥がれていく。
感情を守っていた殻が、音の中でほころびていく。
「……あなた……魔法が使えるのね!? じゃないと、おかしいわ!
発動条件が……鼻歌なの?」
私は、椅子からバッと立ち上がって叫んだ。
リックは、まるで楽しむように目を細めながら、落ち着いた声で返した。
「……おっと。契約には“互いの秘密を尊重する”とあったな?」
「なっ……!」
ぐっと詰まり、言葉が出なくなる。
「……それなら……私が“どこで”このオルゴールを知ったかも――言えないわ」
皮肉を返すように言った。
リックの口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
「ふふ……そうか。なら、いっそ互いに……“うちあける”というのはどうだ?」
彼の問いに、私はしばらく黙っていた。
でも――またしても、リックは鼻歌を歌い始めた。
その音が、再び心の奥を撫でてくる。
「……そうやって、ルダにも……歌ってたのね」
私はゆっくりと息を吐き、瞼を伏せた。
私はゆっくりと息を吐き、瞼を伏せた。
「……いいわ。話す……わ」
椅子の背に手を添え、静かに口を開いた。
「私は……――人生を、五度やり直してるの。
そして……これが、六度目なの……」
声が震えた。けれど、止まらなかった。
心の奥に沈めてきた記憶が、音に誘われるように浮かび上がってくる。
「だから……未来で、あなたが作ったこのオルゴールを見たことがある。
あのとき私は……“皇妃”だったの」
そこから、私は……語った。
ひとつ、またひとつ、断片的に。
でも確かに、語ってしまった。
最初に嫁いだ、皇太子のこと。
次に、センドリード公爵家の子息とのこと。
そして、一度だけ、平民の青年と出会い、
初めて、穏やかな未来を夢見たこと。
けれど、その彼は、恋に落ちる前に殺されてしまったこと。
私は誘拐され、薬を盛られ、正気もないまま――
ギデモンズ侯爵に、無理やり嫁がされ、目が覚めたときには、もう何もかも終わっていたこと。
それから――
六十五歳のサルバータ公爵。
後妻業で近づいたつもりが、魔力を搾取されて終わった結婚。
モールスト伯爵。
華やかな顔の裏で、私の魔力を搾取し続けたこと。
(……あのときの絶望感、忘れられるはずがない)
唇が震えた。
私は、こんなにも語ってしまっていた。
止められなかった。止まらなかった。
気づけば、涙が頬を伝い落ちていた。
「……もう……いいでしょう……許して……」
その一言に、かすれるような懇願が滲む。
すると、静かに――
部屋に流れていた鼻歌が、ふっと止まった。
音が消えた瞬間、魔法のような感覚もすべて引いていき、
残されたのは、自分がすべてをさらけ出してしまったという事実だけだった。
(……言ってしまった)
(まさか、彼が魔法を使えるなんて――しかも、こんなにも“精神”に直接働きかける魔法)
(いったい、どの神に愛されれば、こんな力を授かるの……)
背筋を冷たい感覚が撫でていく。
(……これは危険だわ。あまりにも。だから魔法を使えないことに?)
私の秘密を暴いてしまった彼もまた、同じように何かを――何か大きなものを隠している。
(……今からでも、結婚をやめるべきかもしれない)
けれど、その考えは……続かなかった。
(……もう、私は……この男の“歌”を……聞きすぎた)




