18.招かれざる毒杯
静かな賓客室の中。
応接テーブルの上には、つい先ほど侍女が運んできたばかりの茶器が並んでいた。
私は緊張をほぐそうと、そっとカップに手を伸ばす。
隣を見ると、リックウェンも無言でカップを手に取っていた。
――が。
彼は、カップを唇に運んだ瞬間、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……ん?」
低く小さく、そんな声を漏らす。
けれど、すぐに何事もなかったように、
ゆっくりと一口だけ茶を飲み下した。
(……?)
私は不思議に思ったが、リックウェンは特に何も言わず、いつも通りの無表情を保っている。
だから、深く気に留めず、私もそっと自分のカップに口をつけた。
――そんなときだった。
重厚な扉が、ギィ、と静かに開いた。
賓客室に、二人の人物が入ってくる。
――私の両親だった。
父は、いつものように堂々とした態度で部屋に踏み入り、
母はそのすぐ後ろを、ふんわりとした優しい微笑みを浮かべながらついてくる。
父は部屋を見回すと、向かい合うソファーへとズカズカと歩み寄り、ドシンと腰を下ろした。
母も、その隣に静かに座る。
私はというと――
なんとなく流れで、リックウェンの隣に腰を下ろしていた。
(あれ、なんか自然に……隣、座っちゃった……)
思わずちらりと隣を見たけれど、リックウェンは特に気にした様子もない。
そのときだった。
「はっ、はっ、はっ、悪い悪い。待たせてしまったな!」
父が、まるで友人に話しかけるみたいな砕けた口調で声を上げた。
「先日はすまなかった」
大きな手でバツが悪そうに後頭部を掻きながら、
――けれど、どこか楽しそうに笑う。
(……先日、リックを無理やり飲みに誘って、泥酔させて、何もなしで帰った件ね……)
内心、頭を抱えたくなる気持ちを押し殺す。
しかし、リックウェンはそんな父に対しても、
礼儀正しく、微笑を浮かべながら応じた。
「いえ。楽しいひとときを過ごさせていただきました」
その穏やかな答え方に、私は思わず胸を撫でおろす。
(さすがリック……本当に大人だわ)
ふと横目で見れば、母もにこにこと嬉しそうに目を細めていた。
そんな中、父はズイッと体を前に乗り出す。
「それにしてもだな」
にやりと笑いながら、リックウェンと私を交互に見つめた。
「娘を……ヴィアを、よろしく頼むぞ!」
その言葉に、思わず私は体をビクッとさせた。
リックウェンも、ほんのわずかに目を瞬かせる。
「……はい。必ず」
少しだけ表情を引き締め、リックウェンはしっかりと返事をした。
その横顔を見て、胸の奥がきゅうっと締めつけられるような気持ちになる。
父は満足げに大きく頷き、さらに畳みかけた。
「で、結婚はいつにするんだ?」
あっけらかんと、爆弾を放り込むように。
「――えっ」
「――……」
私もリックウェンも、同時に声を失った。
父のあまりに直球な問いかけに、応接室に妙な沈黙が落ちる。
その空気を破ったのは、リックウェンだった。
彼は一呼吸置き、静かに、けれどまっすぐに答えた。
「……ヴィアの意思を、尊重しようと思っています」
落ち着いた低い声。
その中に、確かな誠実さが込められていた。
(……リック)
隣で聞きながら、胸の奥が温かくなる。
リックウェンの言葉に、父も母も目を細める。
少しの間、二人で何かを確かめるように顔を見合わせたあと――
今度は私が、慌てて口を挟んだ。
「あ、あの……」
両手を膝の上でぎゅっと握りしめながら、言葉を選ぶ。
「私、まだデビュタントが終わっていませんし……
それが終わって、結婚式の準備にかかるとしても……
最低でも、半年は必要じゃないかと思います」
なるべく落ち着いた声で、丁寧に説明した。
すると、両親は一瞬きょとんとした顔をして――
すぐに、目を細め、静かに笑った。
まるで、少し驚きながらも、心から誇らしく思っているような――
そんな温かな表情だった。
「……本当に、大人びたなぁ」
ぽつりと父が呟き、母もうんうんと頷く。
「昔のヴィアを思い出すと……なんだか信じられないくらい」
(……そりゃ信じられないでしょう……)
ただ、回帰を繰り返してきたせいで、
考えることや責任が増えすぎただけだ。
子供らしい無邪気さなんて、もう、とっくの昔に置いてきた。
父はふと、ふかく背もたれに寄りかかり、しみじみと呟く。
「思えば、こうしてちゃんと会話するのは……はじめてだな。エリヴィ」
その言葉に、私はふっと目を伏せた。
(……本当にそうよ)
(今まで、こんなふうに落ち着いて話すことなんて、ほとんどなかったのに)
冷たかったわけじゃない。
でも――どこか、いつも遠かった。
それが、今回の人生では、こんなふうに向き合うことができている。
(……どうして、今回だけ)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そうして――
正式な挨拶らしい挨拶も、無事に終わった。
両親との会話はぎこちなさもありつつ、でも、どこか温かくて。
最後には、ちゃんとリックウェンとの結婚の日取りまで決まった。
半年後。
私のデビュタントを終えたあと、式の準備を進めることに。
(……本当に、決まっちゃったんだ)
玄関ホールへリックウェンを見送りに向かう道すがら、
私は、どこかふわふわした気持ちで廊下を歩いていた。
自然と、口元から鼻歌が漏れる。
小さな音。
誰にも聞かれないような、ごく控えめなメロディ。
(これ……凄く心地いい……)
歩くリズムに合わせて、軽やかに。
だけど――
いつもと少し違う、不思議な心地よさが胸を満たしていた。
(……なんだろう)
ほんのり胸が温かく、けれど、どこかくすぐったい。
(歌が違うから……かしら?)
無意識に紡いでいた旋律は、いつもの鼻歌よりも柔らかく、優しかった。
そんなふうに自分でも気づかないうちに、私は玄関へとたどり着いていた。
リックウェンは、すでにコートを羽織り、帰り支度を整えていた。
その立ち姿は、凛としていて、やっぱり少しだけ遠い。
でも――
私が近づくと、彼はふっと表情を和らげ、私の方へ軽く体を傾けた。
そして、誰にも聞こえないくらいの低い声で、そっと耳元に囁いた。
「――俺の茶にだけ、毒が入っているようだったが。心あたりは?」
「……っ!?」
耳に直接触れるような距離で、淡々と言われたその内容に、私は思わず飛び跳ねそうになった。
(な、なんですってぇぇぇーーー!?)
脳内で警報ベルが鳴り響く。
顔が一気に真っ青になりながら、
私は、声にならない悲鳴を心の中で上げるしかなかった。




