12.二人きりの、はじめての夜?
どこかで、心地よい鼻歌が聞こえていた。
低く、穏やかに震える、柔らかな重低音。
まるで深い森の奥で、誰かが優しく呼びかけているような――そんな温かい音。
(……誰……?)
ふわりとした意識の中で、私はぼんやりと思う。
気づけば、自分の手が誰かの手に包まれていた。
大きな掌。
しっかりとした指。
けれど、包み込む力はとても優しい。
(……あったかい……)
自然と、胸の奥のざわつきがすうっと消えていく。
怖かった記憶も、苦しかった記憶も、今だけは――遠い。
それほどまでに、心地よかった。
けれど、次第に違和感が混じる。
(……でも、少し……お酒くさい……)
いや、少しどころじゃない。
かなり、だ。
(……え?)
ゆっくりと、瞼を持ち上げた。
滲む視界の先で、リックウェンがいた。
私の手を、両手で大事そうに包み込みながら、
低い声で、小さな鼻歌を歌っている。
その髪は少し乱れ、服もどこか着崩れていて――
頬が、ほんのり赤く染まっていた。
(リックウェン……酔ってる?)
私は、か細い声で尋ねた。
「どうして……?」
リックウェンは、はっと気づき、慌てたように手を離しかけた。
「あ……すまない。
手は……その、君から握ってきたから……離しづらくて」
言い訳するような、不器用な声音。
「えぇ!? ご、ごめんなさい!」
慌てて体を起こし、手を引っ込める。
恥ずかしさと、戸惑いで、顔がじんわりと熱くなる。
改めて、リックウェンを見た。
髪は軽く跳ね、シャツの襟元も少し緩んでいて、
普段の凛々しさとは違う、どこか無防備な雰囲気。
(……なんだか、いつもと違う)
私は小さく息を飲んで、問いかけた。
「どうしてここにいるの? それに……お酒を飲んだの?」
リックウェンは、バツが悪そうに頬を掻いた。
「あ……いや。
陛下に、君との婚約の許可をもらっていたんだ。
爵位を持っている以上、正式な報告は必要で……」
そこまで語ると、苦笑いを浮かべる。
「そしたら、君の父君が側にいてな。
それから……母君まで現れて……挨拶をして……そのまま家に招かれた」
(あの時、抱き留めてくれたのって……リックウェンだったのね)
胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
それと同時に、こみ上げる別の感情。
私はわざと、皮肉めいた声を出した。
「で? 私が倒れてるのに、お酒を?」
リックウェンはきまずそうに眉をひそめ、目を逸らす。
「……あぁ。すまない。断れなかった」
小さな声だった。
その姿に、なんだか笑えてしまって、私は肩をすくめる。
「呆れた……両親にね」
リックウェンは何も言わず、申し訳なさそうに黙り込む。
そんな彼に、私は少しだけ優しい気持ちになった。
だから、明るい声で続ける。
「安心して。
両親は、かなりの放任主義なの。
私が……平民と結婚しても……」
一度、言葉を詰まらせる。
記憶の中の平民の彼――優しかったけれど、結局、守れなかった。
胸がきゅっと痛んだ。
私は慌てて笑って取り繕う。
「い、いや。たとえば、爵位のない人と結婚しても……きっと放置してるわ。
だから、安心して」
無理に笑顔を作る。
でも、そんな私を、リックウェンはじっと見つめていた。
「…………君は、何か大きな誤解をしていると、俺は思うんだが……」
静かな、けれど確かな声だった。
私は目を瞬かせる。
「え?」
リックウェンは、ふらりと揺れながらも、まっすぐな目で私を見ていた。
「君のご両親は、とても……君を大切に――」
そこまで言いかけて。
ぐらり、と。
リックウェンはベッドに倒れ込んだ。
ぐったりと、力が抜けたように。
(……あ)
私は思わず駆け寄る。
リックウェンの顔は、ほんのり赤く、呼吸は穏やかだった。
(完全に……酔いつぶれてる)
私は小さくため息をつく。
でも、どこか――心がふっと、柔らかくなるのを感じた。
(……大きな誤解って、なんだったんだろう)
彼が言いかけた言葉が、胸の中で引っかかる。
(それに……どうしてこの男からは、嫌な気が一切感じられないんだろう)
過去に出会った男たちを思い出す。
誰もが、どこか完璧すぎた。
態度も、言葉も、すべて用意されたような、作り物みたいな優しさだった。
女性の扱いに、とても慣れている。
計算づくの笑顔。
手慣れた甘い言葉。
そんな中にあって――
この男は。
不器用で、ぎこちなくて。
でも、誠実に、精一杯、紳士であろうとしているのが伝わってくる。
(……なんか、初々しいというか……)
私は思わず苦笑した。
(……って、私、何考えてるのよ。
完全に少し、おばちゃん思考じゃない)
自分にツッコミを入れながら、ため息をつく。
(いやだわ……。しっかりしなきゃ)
ふと、横たわるリックウェンを見下ろす。
大柄な体。
頼りがいのある広い背中。
それでも、今は無防備に眠っている。
(って……この大男、どうしよう)
こんな状況、どう考えても普通じゃない。
でも――。
(まぁ、いっか!!)
突然、私は吹っ切れた。
(どうせ結婚するし!!
なんかもう、色々細かいこと考えるの、疲れたわ!!)
勢いよく思い切り、私はベッドの端に腰を下ろした。
リックウェンにそっと毛布をかける。
そして、自分も反対側へもぐり込む。
(スペースもあるし……どうにかなるでしょ)
そう心の中で呟きながら、私は目を閉じた。
リックウェンの、規則正しい寝息を聞きながら――
知らず、ふっと、微笑んでいた。




