11.心は、まだあの日に囚われたまま
「さて、じゃあ――帰りましょうか」
ドレスの注文も無事終わり、私は小さく息を吐いて言った。
リックウェンも隣で頷く。
けれど、ふと、彼が軽く顔を傾けた。
「……結婚式の衣装も、頼んでおかないか?」
さらりと、まるで当たり前のことのように。
「え?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。
言われてみれば当然なのに、あまりに自然な響きに戸惑った。
(そ、そうよね……デビュタントだけじゃない。結婚式もちゃんと準備しなきゃ)
少し視線を逸らしながら、私は尋ねた。
「……でも、時間は大丈夫なの?」
戦地のことを思うと、どうしても気になってしまう。
あの荒れた前線――クローディアス領はまだ傷だらけだ。
彼がここにいること自体、本当は奇跡みたいなものだ。
けれど、リックウェンは微笑んだ。
「――あぁ。誰かさんが、俺の仕事に休みを与えてくれたからな」
くすりと冗談めかして言う。
その言葉に、私は思わず吹き出しそうになった。
(……そうか)
そう、彼が休めるのは――
私が、戦争をほぼ停戦状態に持ち込んだからだ。
思えば、これまで何度、何度も繰り返した回帰の中で、
こんなふうに、誰かと笑い合う未来なんて、一度もなかった。
わざとらしく咳払いをして、私はマダム・エリッサに向き直った。
「……ふふ。マダム、お願いできるかしら」
にっこり微笑むと、マダム・エリッサは即座に頭を下げた。
「もちろんでございます!!」
マダム・エリッサは目を輝かせながら、
新たなカタログと生地見本を広げはじめた。
純白のサテン、柔らかなレース、金糸の刺繍――。
見ているだけで、胸がどきどきする。
リックウェンも私の隣で、何も言わずにカタログに目を通している。
ときどき、私にそっと視線を向けながら。
その視線が、くすぐったくて、
思わず私は、笑ってしまいそうになるのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
リックウェンとは、ドレスと礼服の注文を済ませたところで別れた。
彼は何やら別件があるらしく、馬車に乗り込み去っていった。
私はひとり、王都のフォードレイン大公家へと戻る。
馬車が広大な邸宅の玄関に横付けされると――
降り立った瞬間、目の前にふたりの兄の姿があった。
ヴォレアスとディレル。
どちらも、明らかに不機嫌な顔をしている。
次の瞬間。
「エリヴィ!!」
ヴォレアスがズカズカと歩み寄り、私の肩をガシッと掴んだ。
「デビュタントの衣装を見に行くって言ってたじゃないか!!」
その声に思わず肩がびくりと跳ねる。
けれど、私は表情ひとつ変えずに答えた。
「見に行ってたわ」
さらりと流すように。
しかし、ヴォレアスの怒りは収まらない。
続いて、ディレルが口を開く。
「婚礼衣装まで注文したって聞いたよ! エリヴィ、正気かい?
相手は……クローディアス辺境伯だよ?」
(情報が早いわね……。まさか、尾行でもつけてた?)
心の中で小さくため息をつきながら、
私は正面から兄たちを見据えた。
「えぇ。それが何?」
きっぱりと言い切る。
兄たちは顔を見合わせ、明らかに困ったような表情を浮かべた。
私は続ける。
「はぁ……お兄様たちが心配してくださるのは嬉しいですが、
私なりに各家紋を色々調査した結果、一番私が利用されないのがクローディアス辺境伯だったんです。
どうか、ご理解ください」
声をできるだけ穏やかに保ちながらも、
その中に確かな決意を込める。
しばしの沈黙。
ヴォレアスとディレルは、何度か視線を交わし合ったあと、
それでもなお諦めきれない様子で提案してきた。
「けど、流石に……見過ごせない。
そうだ! センドリード公爵家のアイズレギオンとか、どうだ?
年も一歳違いだし、ディレルとも仲が良いし」
その名を聞いた瞬間――。
脳裏に、ズシン、と鈍い衝撃が走った。
(……アイズ……)
耳鳴りがした。
視界がじわじわと滲んでいく。
かつて、何度も何度も――耳が擦り切れるほど、聞かされた言葉たちが、
堰を切ったように脳内に押し寄せる。
『家の為に生きろ』
『センドリードの威厳の為に、感情を捨てろ』
『フォードレイン家に劣る恥を晒すな』
『お前一人の幸福など、家門の未来の前では塵に等しい』
『個人の願い? 笑わせるな。家門にとっては不要だ』
『家のために笑え、家のために泣け、家のために死ね』
『忠誠心を誓え、心も魂もすべて捧げよ』
『家門のために、壊れてでも生きろ』
鋭い針が、脳を突き刺す。
一言一言が、
肌を裂き、
胸を切り裂き、
心臓を、じわじわと、深く抉っていく。
苦しい。
痛い。
苦しい。
痛い――。
選ぶ自由など、最初からなかった。
笑う自由も。
泣く自由も。
夢を見る自由すら、許されなかった。
すべて、『家門のために』の名のもと、踏み潰された。
(……いや……いや……)
心の中で、必死に叫ぶ。
けれど、その叫びすら、誰にも届かない。
声が、声が、声が、
まるで呪いのように脳内で反響し、私を押し潰す。
『家のために』『家のために』『家のために』
(たすけて……)
酸素が、胸に届かない。
心臓が、苦しみに暴れ、
脳が、焦げつくように熱を持つ。
(……やめて……やめて……)
視界が滲む。
耳がきいんと鳴る。
身体の感覚が遠のいていく。
あの頃――
どれだけ泣いても、
どれだけ壊れても、
誰ひとり、手を差し伸べてくれなかった。
ただ、「家」のために。
ただ、「誇り」のために。
私は、ずっと――壊され続けてきた。
何度も、何度も、何度も。
手足が、がくがくと震えた。
胸が締めつけられる。
呼吸ができない。
苦しい。
痛い。
苦しい。
痛い――。
「…………っ!!」
膝が、砕けた。
がくり、と。
何かが――音を立てて、内側から崩れた。
世界が、ぐにゃり、と歪んだ。
誰かが、駆け寄った。
誰かが、必死に私を抱きとめた。
でも、その温もりすら、遠かった。
(ああ――)
暗闇が、音も、光も、思考も、すべてを、飲み込んでいく。
心ごと、身体ごと。
私は、ただ、沈んでいった。




