1.何度回帰しても、私は道具だった
グヴレシナス帝国――。
それは、この大陸で最も広く、最も力強く、そして……最も冷たく君臨する国だった。
遥かなる地平線まで広がる領土、夜空を裂くようにそびえ立つ城塞群。
どこまでも高く掲げられた黒地に金の炎の紋章が、帝国の誇りと苛烈な支配を象徴している。
その礎を支え続けた名門、フォードレイン大公家。
建国の時代から帝国とともに歩み、代々、魔力の増幅と強化の力を受け継いできた、最古にして最強の一族。
その名は、恐れと敬意をもって囁かれてきた。
私は、その末娘、エリーナヴィアス・フォードレイン。
真紅に燃えるような髪と、夜の宝石を思わせる紫色の瞳。
妖艶なボディラインと、年齢に似合わない色っぽい顔立ち――。
周囲から向けられる視線は、幼いころから特別だった。
けれど私にとって、本当に大切なのは、血筋でも、見た目でもない。
私を大切に包んでくれた家族だった。
長兄ヴォレアス。
落ち着いた赤髪を後ろに流し、鋭い紫の瞳で家族を静かに見守る兄。
次兄ディレル。
ふわふわと柔らかい淡赤の髪に、穏やかな微笑みを絶やさない兄。
ふたりは、厳しくも、誰よりも深い愛情をもって、私を育ててくれた。
──そして、私は、帝国中の憧れとなった。
「フォードレイン家に嫁げば、誰よりも幸福になれる」
「その血を手にした者は、誰よりも幸運を掴むことができる」
そんな噂は、王城にも市井にも、絶えることなく流れ続けた。
街を歩くたび、華やかなドレスを纏った私のもとには、数えきれないほどの求婚者たちが殺到した。
名門貴族、富豪商人、さらには海を越えた異国の王族たちまで――
誰もが、私を手に入れようと躍起になった。
そして、迎えた私のデビュタント。
社交界正式デビューの日は、まるで戦場のようだった。
「誰がエリーナヴィアス嬢をエスコートするのか」
その座を賭けて、数多の若き貴族たちが火花を散らして争った。
けれど、私は迷わなかった。
私が選んだのは、グヴレシナス帝国第一皇子、クレイシス・グヴレシナス殿下。
金色の髪、透き通るような碧い瞳。
完璧な血統、完璧な容姿――
そして、なにより、私は彼を信じていた。
学園時代から、クレイシス殿下は、幾度となく私に手を差し伸べてくれた。
「共に昼食をどうか」
「この舞踏会、ぜひ私の隣に」
何度誘われても、殿下の微笑みは一度たりとも傲慢ではなく、
私だけを大切に扱ってくれる優しさに満ちていた。
誰もが口を揃えて言った。
「これ以上の栄誉はない」と。
「これ以上の幸福はない」と。
そして、私自身も、信じて疑わなかった。
あの日。
デビュタントの夜。
きらびやかなシャンデリアの下、クレイシス殿下は私の手を取り、そっと唇を寄せた。
「君を、生涯、誰よりも大切にする」
碧い瞳に浮かんだ優しい光。
その言葉に、胸が高鳴った。
頬が自然に熱を帯び、私は目を伏せながら、ただ小さく頷いた。
──それが、地獄のはじまりだった。
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――――――――
数年後――。
魔力は、使い果たしてもなお、求められた。
骨の髄まで、魂の最後の一滴までも。
私はもはや、クレイシスの、いや、帝国そのものの道具に成り果てていた。
燃え盛る城壁。
荒れ果てた大地。
干上がった川。
かつて豊かだった帝国領は、無残なまでに滅びの色を深めていた。
民衆たちは、日々の暮らしに喘ぎ、怨嗟の声を上げた。
だが、暴政の果てに罪を問われたのは、支配者ではなく――私だった。
「すべて……フォードレインの魔女が仕組んだことだ!」
誰かが叫ぶ。
それを合図に、槍が突き立てられた。
鋭い痛みが、身体を貫く。
続いて、剣が私の腹を抉った。
鉄の臭いと生温い血の感触に、思わず膝が砕ける。
倒れ込んだ地面は、すでに血で染まり、ぬかるんでいた。
ぼやけた視界の中、私はただ、空を仰いだ。
(あぁ……こんな結末を、誰が、予想できたでしょう)
胸の奥が、ひどく空しい。
泣きたかった。でも、涙さえもう枯れていた。
最後に思い浮かんだのは――家族の顔。
小さな手を包み込んでくれた、ヴォレアスお兄様。
いつも微笑みながら抱きしめてくれた、ディレルお兄様。
そして、父と母の、あたたかい声と、優しい笑顔。
(……私、帰りたい)
誰にも聞こえない願いを、心の中でそっと零す。
暗闇が、じわりと世界を覆っていく。
冷たい風が、頬を撫でた。
そして私は、享年三十六歳――その生涯を閉じた。
……けれど。
奇妙なことが起こった。
再び意識を取り戻したとき、私は見知らぬ天井ではなく――
懐かしい部屋にいた。
窓から差し込む、柔らかな春の陽射し。
白いレースのカーテンが、ふわりと風に揺れる。
手を見た。
小さい。白い。まだ、少女の頃の手だ。
――デビュタントの、数か月前。
そう。
まだ、誰とも婚約を結んでいない。
誰からも利用されていない。
絶世と呼ばれる、私の最盛期の頃に――私は戻っていた。
戸惑いながらも、私は決意した。
今度こそ、自分の人生を掴むのだと。
……けれど。
どれだけ違う男と結婚しても、待っていたのは変わらぬ結末だった。
別の男。
また別の男。
名を変え、顔を変えた男たちは、最初は愛を誓い、優しく微笑んだ。
けれど、結局は同じだった。
彼らは、私の魔力を、家柄を、すべてを搾取していった。
手を差し伸べたその手で、私を引き裂き、貪った。
――何度繰り返しても、変わらない。
私は、ただの道具にしかなれなかった。