指輪
最初に浮かんだ疑問は呼吸ができることだった。
水銀の湖に落ちた正亜は、おそるおそる目を開ける。
淡く光る空間を浮遊していた。
——なんだこれは。
ようやくにして、正亜の思考が動き出す。
——体が浮かない、ってことは水銀じゃないのか? それに、この景色……。
上を見ても、水面などはなく、どこまでも同じ光景が続いている。外の光景はなにも見えない。音も聞こえない。まるでここが別世界でもあるかのようだ。
外でどうなってるかはわからない。だが早くしないと晴人が危ない。いかにインターハイ出場者の格闘技経験者とはいえ、相手は恐竜。それも四匹。
——どうすればいいんだっ! 原始的な暴力の前に、本で覚えた知識なんてなんの役にも立たない……。晴人みたいな体力も、武力もない。なにもできない……。でも、それでも、死んでたまるかっ!
強く、死を拒む。その意思に応えるように、周囲の光が増した。とりわけ眩しい光の線が、正亜の周囲を舞う。
——なんだこれ……。人の意思に対応してる……? わからない。けど、考えたってしょうがない。それでももうこれしかない!
その光を掴もうと、手を伸ばした。
光のリングに触れた瞬間、脳裏に鮮烈なイメージが流れ込んでくる。
太古の地球。恐竜たちが闊歩する時代。彼らはすべての大陸で繁栄し、哺乳類は夜の暗がりに追いやられていた。
太古の地球の空を、眩い光が走った。
一億年以上もの長きにわたる恐竜の時代を終わらせたのは、たったひとつの、宇宙から打ち下ろされた一撃。
ユカタン半島に落ちた隕石は、すべてを一変させる。
天を切り裂く光を、正亜は呆然と見上げていた。
隕石の衝突。
数千キロの地平が炎によって薙ぎ払われ、巨大なクレーターは地形を変える。
クレーターの縁にいた正亜は、足元に、水銀のような液体が飛び散っているのに気づいた。
隕石から溢れ出した銀色の水は、クレーターの中に満々と湛えられ、湖となる。
いまだ燃え盛る中心地から、一体の竜脚類が歩き出てくるのを、正亜は見た。
20メートルを越す巨体、四足で歩く、首の長い草食の恐竜は、皮膚を燃え上がらせ、何度も膝を降りながらも、銀色の海を進んでくる。
生きたい。
強烈な願いが、湖を通して正亜へと伝わってくる。
湖は光を増し、恐竜のもとへと集まり、巨大な球体を成す。
球体は膨らみ続け、周囲にいた恐竜や、植物、さらには水中の生物までも呑み込み——消えた。
あとに残ったのは空っぽのクレーターと、燃え盛る炎だけ。
炎は迫り、その熱は正亜に届き、皮膚を焦がし、そして————
白昼夢は終わる。
ーーーーーーーーーー
水面に出ると、湖の真ん中だった。咳き込みながらも泳いで岸を目指す。
晴人は恐竜たちの牙と鉤爪を紙一重でかわしている。
正亜は少し離れた岸にあがった。恐竜たちはまだこちらに気づいていない。
手のひらの中には指輪。
あの白昼夢が終わった後、この指輪を握っていた。不思議なことに使い方もわかる。理屈なんてわからない。だが、今はこれを信じるしかない。
正亜は左手の中指に指輪をはめる。
指輪は上半分は金、下半分は銀に分かれている。その上半分を回した。
指輪の力が溢れ、形となり、それは顕現する。
体調1メートル足らずの、真っ黒い犬のような生き物。
召喚された生き物を見て、正亜は首をかしげる。
「……これ、大丈夫か?」
若干不安になりながらも、頭の中で命令をくだした。犬は駆けだし、恐竜へと飛びかかる。
正亜を食べようとしている恐竜の尻尾に噛み付いた。恐竜はそれに気付き、うっとうしそうに尾を振るう。
「きゃん!」
健気な鳴き声をあげ、犬は飛ばされた。だが怖気付くことなく再び恐竜に噛みついていく。
「なんだなんだ、なんでポチがいるんだ!?」
それまで真剣な顔で立ち回っていた晴人が素っ頓狂な声をあげる。
「晴人! 今だ、逃げろ!」
恐竜たちが犬に気を取られた隙に、晴人が包囲から抜け出す。正亜のもとに走ってきた。
「なに、あれ?」
「わからん。なんか出た。ていうかポチって、お前の飼ってる犬か?」
「いや、犬はポチやろ」
「……そうか」
2人が話している間に、犬は恐竜の一匹に捕まった。
あっさりと頭を食いちぎられ、恐竜の胃袋へと消えていく。
けれど犬一匹では、満腹には程遠かったらしい。
おやつを平げた恐竜たちは2人に向き直る。2人は顔を見合わせ、走り出した。
「僕、あの世に行ったらポチと遊ぶわ」
「諦めるな! まだ諦めるな! もっとがんばれ!!」
「君が溺れてる間も僕戦ってたんよ」
実際、晴人の服はあちこち鉤爪で切り裂かれている。
「じゃあもうちょっとがんばってもらおうか!」
「なんかテンション高くない?」
「犬じゃダメだったが、もっとすごいのを出す!」
「もっとって?」
「わからん! とにかく時間稼ぎたのむ!」
正亜が懇願すると、晴人は「うがーっ!!」と雄叫びをあげた。恐竜へと向き直る。
「かかってこいやー!!」
正亜は20メートルほど距離をとり、指輪をはめた手を湖に突っ込んだ。その状態で力を発動する。
——なんでもいい、なんでもいいから、あれに勝てるやつ、来いっ。頼む!
湖が、脈動した。小さな波が立つ。それはだんだんと大きくなり、まるで湖全体が生きているかのように動き始める。
水銀の柱が何本も立ち上る。柱は重力に逆らって林立し、触手のような見た目になった。
触手は恐竜へと襲いかかる。晴人を囲んでいた恐竜たちを掴み、地面に転ばせた。その隙に晴人が逃げる。
触手は恐竜たちの四肢に絡みつき、締め付け、腕を引きちぎり、首を捻じ切って、湖の中へと引き込んだ。
恐竜たちは触手とともに水中へと消える。あとには何も残らない。
湖の周辺はしんと静まり返る。晴人がそばまで来ていた。
「………………クラーケン」
「…………たしかに、そんな感じだったな」
脅威が去り、2人は一気に力が抜け、座り込んだ。
顔を見合わせ、どちらからともなく笑い、腹を抱え、地面を転がる。
「疲れたー」
「ああ、本当にな……痛っ」
激痛を感じ、正亜は手を見た。
指輪の周辺が黒く変色していた。皮膚が硬くなり、動かすと痛む。晴人がそれに気づいて覗き込んできた。
「……性病?」
「童貞がどうやって性病なるんだろ。……たぶん、今の化物、クラーケンを召喚した代償、とかかな」
銀色の湖、召喚の指輪、クラーケン、考えることがどんどん増える。
だがすべての思考を切りやめ、正亜は言った。
「ちょっと休ませてくれ……疲れた」
「いいよ」
晴人の言葉に甘えて、正亜は横になる。目を瞑った瞬間、眠りに落ちた。