異界の夜に
森の中を散策することしばし。
茂みの中に奇妙な膨らみが見えた。
毛玉……のように見える。かなりでかい。
「晩御飯が僕を呼んでる」
見るなり晴人が近づいていく。正亜はおっかなびっくり晴人の背中にぴたりとついていた。
近づくと、毛玉の正体が見えてきた。
でかいネズミだ。
灰色の毛並み、長い前歯、短い手足。
ネズミが大きな耳をぴくぴく動かし、首を2人に向ける。
「逃げるなよ、コラッタ」
晴人が人差し指を突きつけながら言った。まあ逃げるだろうな、正亜はそう思ったが、なんと巨大ネズミはこちらをじっと見たまま動かない。
——こっちを見ても逃げない、ってことは人間を見たことがないのか? だとしたらどれだけ原生林なんだ、ここ。ていうか人間サイズのネズミって、世界にいたか?
正亜は記憶を総浚いして調べるも、該当する動物はない。最大の齧歯類はヌートリアで、1メートルを超えることもあるが、目の前のネズミは150センチはある。見た目はドブネズミに近い。
ネズミはころころと不思議な鳴き声を発した。晴人が食べる気満々で近づいていくのに逃げる気配はない。
唐突に、赤い光。
光源はネズミの口。閉じた口の隙間から、赤い光が漏れている。
「は? なんだこれ」
正亜が目を細めてネズミを観察。口が大きく開かれた。
炎。
荒れ狂う真っ赤な炎が、ネズミの口内に満々と湛えられていた。
「……火?」
正亜はただ茫然と立ち尽くしている。ネズミが前あしをつき、狙いを定めるように2人をまっすぐに見据えた。
動いたのは晴人。
正亜を突き飛ばす!
地面に転がる2人の背後に、極太の炎が放たれた!
正亜は悲鳴すら出せず、ただその現実離れした光景を見つめている。
ネズミは炎を出したまま首を回して2人を追う。晴人はむんずと正亜の腕を掴み、炎から逃げた。巨木の後ろに正亜を投げ飛ばす。
正亜が地面に落ちるのを見ることもなく、晴人はネズミに向き直る。
そして、駆けた。
火炎放射をかいくぐりながら、ネズミへと走る。
残り一足の距離。
正亜は拳を作り、ネズミを殴りつけた。
ずしりと重い手応え。体重は晴人よりもずっと重い。
晴人はよろめくネズミの背後を取り、首に腕を回して締め上げた。
ネズミが暴れ回る。ものすごい力だが、アルソックに行った先輩よりは弱い。
腕に力を込めると、落ちた。
ネズミは意識を失って倒れる。
晴人は正亜のもとに向かった。
「生きてる?」
「…………生きてる」
正亜は投げ飛ばされたときにできた擦り傷をさすりながら立ち上がった。
「……死んでんの?」
「いや、締めただけ」
「気絶か」
正亜は木から出ると、ネズミに近づいていく。急に起きたら怖いので晴人を盾にして、よく見える距離まで近づいた。
奇妙な生き物だ。
晴人がいくら強いとはいえ、それは人間という同じ種族の中での話。武器も持たないひとりの人間にあっさりやられるなんて、野生の中で生きていけるのだろうか。
かすめた疑問をきっかけに、正亜は自問自答をはじめる。
——人間より弱い獣。どうやって生きてる? 天敵のいない環境なのか?
——いや、今の火炎放射。あれがあれば天敵は追い払えるのか。ならあとは餌。
——見たところ動きは速くない。直立二足歩行という、非合理的な移動法をとる人間よりも遅かったくらいだ。狩に向いているとは思えないが、歯の形状は肉食動物のそれ。
——けど、たとえば大量の獲物を集めて、一斉に火炎放射を放てば、効率的に狩れる、……のではないか?
——獲物を集め、一斉放射するには、一匹じゃ不可能。
そこまで思考が到達したところで、晴人の腕を掴む。
「なんだ? 怖い怖いなのか? ガキめ」
「すぐに逃げよう。逃げたほうがいい」
「いいか、僕はお腹が減ってるんだ」
「こいつ、群れで行動してる可能性が高い。近くに仲間がいる。囲まれるとまずい」
「なんでそんなことわかるんだ? 貴様の目には未来が見えるのか?」
「いいから、言うこと聞いてくれ」
「あんまり偉そうにすんじゃねえぞ? さっきからなんにも役に立ってないだろ貴様」
正亜は眉を寄せる。
晴人の言う通りだった。
晴人が戦っている間、正亜はろくに動くこともできなかった。頭は回る。だが、体が動かなかったのだ。それどころか、どう動けばいいのかもわからなかった。
所詮は机上の空論。現実の脅威にはなんの役にも立たないのかもしれない。
正亜がぐるぐると思考のるつぼにはまっていると、晴人はネズミをつついたり、皮膚を引っ張ったりして食べ方を考えていた。
ちらと、正亜の目の隅に引っかかるもの。
視線を向ければ、赤い光。
「おい、晴人! 晴人!」
晴人もそれに気付き、その場を飛び退いた。炎の柱がさっきまで2人のいた場所を焼く。
さらに別の方向からも炎。
晴人は正亜を見た。
「貴様、天才か?」
「んなこと言ってないで逃げるんだよ!!」
2人は揃って走り出す。正亜は全力で走っているのだが、見る見る晴人の背中が遠ざかっていった。なんとか追いつこうとするも、インドアの足ではどうにもならない。
晴人が振り返り、正亜が遅れているのに気づく。慌てて戻って正亜を抱き上げた。
両手で腰と背中を持ち上げる、まあようするにお姫様抱っこの姿勢。明かに走るのには向いていないが、正亜がひとりで走るよりも速い。
「ぬわー! 筋肉痛がー! おー、痛いぞぉー! 痛いぞー!!」
いつもなら「ゴリラうるさい」とでも言うのだろうが、正亜は抱き抱えられている身なので自重する。
「さっきも言ったけど」
「なんだ!? 聞こえないぞ!」
ちなみに今も攻撃は続いており、晴人は避けながら走っている。
「さっきも言ったけど!! 相手は群だ! 囲まれてるかもしれん! どこから敵が出てくるかわからんから気をつけろよ!!」
「り」
今度は言い返したりせず素直にうなずく。
言ったそばから、物陰に隠れていたネズミが飛び出してきた。晴人がご自慢のタックルで突き飛ばして何事もなかったかのように走り続ける。
それを最後に、ネズミの攻撃はぴたりとやんだ。
十分に距離をとると正亜を下ろし、今度は2人で走った。20分ほど走ってようやくとまる。
木々の開けた場所、晴人は大の字に寝転がった。
「水ー! お水飲みたーい!!」
「お前はいちいち叫ばんと気が済まんのか。他にも敵がいるかもしれないんだ。静かにしてろよ」
「すべて薙ぎ払う」
「……お前が言うと冗談に聞こえんな」
強者感がすごかった。
「おい、お前天才なんだろ? 我に水の場所を指ししめせ」
「知識と推理で川を見つけれるなら遭難者出てねえよ。探すしかない」
「どうやって探すんだ」
「高いところに登るとか?」
「…………お前、天才か?」
晴人は近くにあった木に手をかけると、するする登っていく。正亜も残されるのは怖いので木登りを試みるも、ぜんぜんうまく登れない。
「晴人、晴人! 待てって」
言われた晴人は太い枝に足をかけて蝙蝠のようにぶらさがり、正亜の手をつかんで引き上げた。正亜が最初の枝に手をかけると、またひとりで登り出す。
かなり遅れをとりながらも、正亜は晴人に追いついた。
巨大な針葉樹の森はどこまでも広がっていた。
夜だが、満月のおかげで見晴らしはいい。
ちらほらと赤い光が見えるのはさっきのネズミが活動しているからだろう。
「我、絶望す」
言って、晴人は太い枝いに力無く寝転がった。
「水はなかったのか」
返事はない。軽く蹴ってみると、晴人はむにゃむにゃ言いながら寝返りを打った。
「え、寝てんの?」
揺すってみるも、まったく反応がない。やがて寝息を立て始めた。
正亜はこんな状況で寝る気にもなれず、隣の枝に座って足を抱える。
空を見上げた。知っている星座はない。
「本当に異世界、なのか?」
川に溺れ、目が覚めると森の中。火を吐くネズミ、見たこともない恒星の位置。
冷たい夜風。ぶるりと体を震わせる。少しでも寒さを紛らわそうと、膝を抱き抱えた。
暗い森の中、夜が更けるにつれて気温も下がってくる。
暗闇が、原始的な恐怖を呼び覚ます。寒さや疲労が不安を掻き立てる。
——どうすればいい、これから。
——こんな深い森の中で、助けなんて来るのか?
——寒い……。夜ってだけでこんなにも怖いのか。いつになったら朝になるんだ。なったところで、この状況には変わりないけど。
——帰るには、どうしたらいい? 本当に異世界だとしたら帰る術もない。生きていくのか? こんな訳のわからない場所で…………。死ぬのか? いやだ、怖い……死ぬなんて、いやだ。
気づけば涙が出ていた。不安に押しつぶされそうになりながらも、正亜はかぶりを振る。
——いや、やるしかない。……やるしかないんだ! 生き残るには……。助けが来るにせよ、それまではここで生きていくしかないんだ。死にたくない。なら、生き残るしかない。幸い、晴人もいる。暴走しがちだが、手綱を握っていればこれ以上頼りになるやつもいない。
空が白けてくるにつれ、徐々に葛藤も薄れていく。
——やってやる。どんな手を使っても、生き延びてやる。
そのためにもまずは体を休めることだ。経験も、肉体の強さもない正亜にとって唯一の武器は知力。眠気は正常な思考力を損なう。
「あー……ねっむ」
横で晴人が目を覚ました。入れ違いに正亜は横になる。
「……じゃ俺も寝るから」
「は? 二度寝か? 甘えんじゃねえぞ」
晴人の軽口に付き合うこともせず、正亜は目を閉じた。