白い雪に鼓動を重ねて
「まだかなぁ........」
テーブルの上に料理の取り皿を置いた男──霜月冬弥はぽつりと呟いた。
少し薄暗い部屋。
その暗がりを照らすのは蝋燭の光。
目の前に用意された豪勢な料理は二人分。
テーブルの脇に置かれた小さなツリーの先端には星形の飾り物が付けられており、クリスマスパーティーの準備は万全だった。
あとは待ち人である彼女が来れば、今すぐにでも始められるのだが........
「頑張ったのに、な........」
顔を俯けた冬弥は溜め息を吐く。
待ち人である少女──冬木雪菜は冬弥の恋人だった。
雪菜と付き合い始めてもう三年の時が経つ。
付き合い始めてから毎年、クリスマスは彼女と過ごしていた。
だけど、最後に会ったのは去年のクリスマス。
恋人などと言っておきながら、一年も彼女に会えて居なかった。
勿論、彼女と合えない日々は寂しかった。
でも、時々彼女の声を聞く事が──いいや、聞こえてきたから何とか耐えてこられた。
実を言えば、彼女との約束などなかった。
それでも、今日は会えるような、そんな根拠のない希望を信じて止まなかった。
メラメラと燃える蝋燭の炎をぼうっと見つめる。
どのくらいの時間待っただろうか。
もしかしたら、彼女は来てくれないのかもしれない。
そんな悲観的で絶望的な想像が心音を激しくする。
その時──
「久しぶりだね、冬弥くん」
「あっ、あぁ........」
僕の心臓が跳ねた。
目の前の少女に目が離せなくて、言葉を上手く綴れない。
長い黒髪が綺麗で、少したれ目の優しい瞳が好きで、笑った時だけその整った顔がくしゃっとする所が愛おしくて。
会いたかったその人は一年前と全く変わらない姿で目の前に現れた。
「........会いたかった! ずっと、ずっと会いたかったんだっ........!」
「ごめんね、きっと私の所為で色々、大変だったよね」
「そんなこと! そんなことないよ。雪菜に会いたくて。今日だって二人で過ごしたくて──」
冬弥はテーブルに視線を送る。
少し冷めてしまったが、豪華と言って差し支えない料理の数々が綺麗に並べられていた。
「........クリームコロッケ。私の大好物覚えてくれてたんだ」
「喜ぶ顔が見たかったからさ。冷めちゃったけど味は美味しいから。よかったら温め直すし、ちょっと待って貰えれば──」
「大丈夫」
「え?」
「私、食べないから。大丈夫だよ」
雪菜は少し困ったような、申し訳ないような顔でそう言った。
料理が気に入らなかった?
いや、彼女の好物ばかりを用意したはずだ。
会えなかった事を反省して僕に遠慮している?
それなら、そんな遠慮はいらない。
だって、彼女の為を思って──彼女の為だけを思って用意したのだから。
「遠慮しないで。沢山作ったし、食後のケーキだって──」
「ううん、違うの。私、食べたくても食べられないから」
「どうして........?」
「だって、私ね........」
視界がぶれる。
ぶれたような気がした。
「──もう死んでるの」
言葉を理解出来ずに固まった。
もしかしたら、咀嚼する事を体が拒んだのかもしれない。
なんでそんな冗談を言うんだ。
冗談にしたって趣味が悪すぎる。
折角の日に、こんな大事な夜に、何とも彼女らしくない。
「そんな冗談、やめようよ」
「冗談、じゃないんだよ?」
「そんな、だって........」
僕は彼女の嘘を確かめるために手を伸ばす。
その色白で、綺麗な頬に触れようとして──
「........あっ」
僕の腕は空を切った。
「なんで........なんでだ?」
再び彼女に手を伸ばす。
その度に僕の腕は、不様に踊り、何も掴めずに蝋燭の炎を揺らすだけ。
まるで、傀儡師を失った下手くそなマリオネットのように。
「あっ........あ、あぁ........っ........」
瞳から溢れだした熱い液体が視界を歪め前が見えない。
大切な人に触れられないこの手が酷く憎らしい。
それでも、腕を伸ばす事をやめない。
何度も、何度も、何度も。
けれど、そこにはもう彼女はいなくて。
「雪菜? どこに行ったんだ? 雪菜っ! 雪菜っ!!」
僕は椅子を薙ぎ倒し、彼女を探す。
玄関、台所、自室、洗面台、部屋中を血眼になって。
やっと会えたんだ。もう離れたくないってそう思ったのに。
それなのに──
「いない、いない、いない、いない........っ!」
そのどこには雪菜はいない。
「うっ........う、うぅ........何で........どこに........どこにいるんだよ........っ!」
僕は力なくその場に崩れ落ちた。
彼女を見つけられない焦りが僕の心拍を狂わせる。
どくどくと高鳴る鼓動で何も聞こえやしない。
気がつけば、僕は両の手を胸の上に重ねていた。
「................」
一定のリズムを刻み、全身を鼓舞する重音。
どこか懐かしさを孕んだ、その音に酔いしれて。
「........いた」
ふと、思い出した。
それは僕のものであって、僕のものじゃないって。
「ずっとここにいたんだ」
彼女のものだって。
「やっぱり、死んでなんてなかったじゃないか」
目の前には、悲しそうな、今にも泣き出してしまいそうな雪菜の顔がこちらを覗いていた。
「........もう、やめようよ」
「........」
「私は死んでいて、貴方は生きてるの、だから──」
「雪菜はここで生きてるよ」
「冬弥くん........」
脈打つ心臓はより早く。
この感覚が生きているという事を強く実感させた。
だけど、彼女はやっぱり困ったような顔をしていて。
僕は雪菜には笑っていて欲しいのに。
「それはもう貴方の心臓なの。私のものじゃないの 」
「そんな........信じれるわけないよ。雪菜は生きている。今だって僕に声をかけてくれて、これからもずっと、ずっと........」
「私を........私を忘れてなんて言わないよ? だけど、貴方の中でちゃんと死なせて。じゃないと──」
綺麗な瞳だった。
優しげで、愛おしくて、恋しくて。
だけど、瞳いっぱいに涙を浮かべて、
「冬弥くんが........壊れちゃうっ........」
鈴のような声で君は泣いたんだ。
その整った顔をくしゃくしゃにして、まるで幼子のように。
僕は彼女の涙を拭いたくて手を伸ばす。
だけど、すり抜けて、彼女には触れられなくて。
「泣かないで、雪菜」
「私がっ........! 私がっ........貴方を置いて行ったから........っ! 冬弥くんはこんなになって........。 ごめんっ........ごめんね........」
僕は何も出来ないんだ。
背中をさすってあげようとして、やっぱりすり抜けて。
無駄だと分かっていても、彼女の悲しみを少しでも取り除いてあげたくて。
そんなもどかしさが、切なくて。
「........続き」
ぽつりと彼女が呟いた。
その目にはもう涙はなくて。
「あの日の続き........しよっか。まだクリスマスは終わってないから」
代わりに決意のようなものが宿っていて。
おもむろに立ち上がった彼女は、洗面台を抜けて、玄関の方に向かっていく。
「待って雪菜!」
僕は必死に追いかけて、玄関の前に立つ。
「あの後、本当は行く予定だった場所。冬弥くんと見たいから」
雪菜がこちらにそっと手を伸ばす。
僕はその手を掴もうとして──少し躊躇う。
「........」
だって、今日はとても寒い日で、道路は凍っていて。
それなのに人々は少し浮かれて、油断していて。
そんな所では、きっとブレーキなんて利かなくて。
大きなトラックは曲がりきれないから、また轢かれてしまうのが怖くて。
「怖い........?」
「........怖いよ」
「大丈夫」
雪菜は僕を落ち着かせるようにそう言った。
そして、僕の手を掴もうとして──
「........あっ」
温かくて、柔らかくて、優しい感触が僕の手に触れた。
それは幻なんかじゃなくて、確かに質量を持った人肌の温もりがあって。
彼女の両手が僕を優しく包み込む。
「大丈夫、怖がらないで」
「僕は........」
「私の大好きな人はね、最初の一歩を踏み出す力があるんだよ。それは私が一番知ってるの。だから──」
玄関の扉を開いて、
「前に、進めるんだって」
雪菜に手を引かれ、僕は一歩を踏み出した。
「........っ!」
冷たい風が僕の頬を撫でた。
久々に見た外の町並みは、目眩がするくらい煌びやかで、眩しくて、綺麗で。
透き通った空気が僕の吐息を白く染める。
「綺麗........」
「だってクリスマスだもん。一年に一度だけの特別な日........なんだよ?」
彼女は少し笑って、頬を染める。
浮世離れした町に、その浮世離れした横顔は、やっぱり幻みたいで。
目を離した隙に、何処か遠くへ行ってしまいそうな彼女を繋ぎ止めておきたくて、僕は握られた手に力を込める。
「........」
そんな僕にやっぱり彼女は少し困った顔をして、それすらも愛おしかったりして。
「いこっか」
「........うん」
こんな時間がずっと続けば良いなって、本気でそう思った。
装飾された町並みを抜け、僕たちは丘の方向へと歩を進める。
静寂の中に響くブーツの足音は心地よく、寒さなんて気にならなかった。
その間も、強く握られた彼女の手を離すことはしない。
「........もうすぐ」
浮わついた思考で、何処に向かっているのかも分からないまま、唯々《ただただ》凍った地面に泥を重ねる。
彼女の綺麗な黒髪の隙間から覗かせる、雪のように白い首筋に違った意味で心拍を狂わせた。
そんな初な反応を見せる僕にも、彼女はくすりと笑って、それが妙に色っぽくて。
「........ついたよ」
気がついた時にはもう目的地に到着していた。
「ここって........」
街灯に照らされた白いベンチ、ポツンと佇む小さなブランコ、花壇には名も知らぬ白と薄紅色の花が咲いている。
それは僕の知っている場所だった。
「冬弥くんと来たかったの」
町外れの公園。
丘の上の休憩所。
ここはそんな風に呼ばれている場所だった。
人通りが少なく、ゆっくりするには最適で、よく学校の帰りに雪菜とも訪れていた場所であった。
ただ、それだけに少し違和感がある。
確かにここは彼女との思いでの場所ではあるが、これと言って何もない場所でもある。
要するに、クリスマスの日に恋人と来るような場所ではない。
それを裏付けるように、この場所には僕と雪菜の二人以外誰もいない訳で。
「本当にここなの?」
「うん」
彼女の屈託のない笑顔から、どうやらこの場所で間違えないらしい。
そんな彼女を見てたら、些細な事はどうでも良くて、二人っきりで過ごせる事を考えたら最適の場所の様にも思えてきた。
僕はいつも通り、彼女と過ごした白いベンチに向かおうとして──
「今日はね、こっちだよ」
彼女はベンチとは真逆の方向を指差した。
僕は彼女に手を引かれるまま、ブランコを通りすぎ、花壇を通りすぎ、街灯の差し掛かるフェンスの前に移動し──
彼女がここを選んだ本当の理由を知った。
「........!」
フェンス越しに視界を彩ったのは、目一杯の光だった。
暗闇を照らす、白、青、金の煌めきが町全体を覆っている。
先ほどまで見ていた眩しいだけの光達が、聖夜の夜に溶け込み、淡いコントラストを描いていた。
その想像を絶する光景に圧倒された僕は息を飲む。
「ここがこんなに綺麗だなんて、冬弥くん知らなかったでしょ?」
そう言った雪菜は悪戯に成功した子供のような笑顔を僕に向ける。
こんなサプライズがあるなんて知らなかった。
クリスマスのこの場所がこんなに綺麗なんて知らなかった。
それは幸せな時間で、大切な思い出で。
ただ、それだけに、
幸せな時間だけに考えてしまう。
「................」
一年前はどんな景色だったのだろうって。
来年はどんな景色になるんだろうって。
その次も、そのまた次の年もクリスマスはやってくる。
その隣には、
僕の隣には、
──もう君はいないんじゃないかって。
「........クリスマス、終わっちゃうね」
「................嫌だ」
「........去年の続き、もう終わっちゃうね」
「........嫌だ!」
「........幸せな時間、もう終わっちゃうね」
「........嫌だっ! 嫌だっ! 嫌だっ!」
恥ずかしくたって良い、みっともなくたって構わない。
駄々をこねて、我儘を言って、それで君が側に居てくれるなら僕は何だってやる。
それなのに........
「もう........分かってるでしょ?」
彼女は笑ってはくれないのだ。
笑って『冬弥くんは仕方がないなぁ』と許してはくれないのだ。
ただ僕に、事実だけを突きつけて、僕を傷つけて、それなのに僕よりも辛そうな顔をしていて。
「離れ、たくない........。夢、見させてよ........」
「私だって........。でも夢はね、覚めるから、夢なんだよ? いつまでも起きないままだと、どんどんと弱っていって壊れちゃうの」
「夢のままで良い! 壊れたって良い! 僕は──」
「ダメだよ」
「................」
「そんな事、私が許せないんだよ」
震えていた僕の左手を彼女の右手が温める。
両の手を繋いだ状態で雪菜と見つめ合う。
「夢の時間はもうおしまい」
「雪菜........」
「私は、あなたの──ううん、大好きな人の胸の中で眠ります」
「行かないで........」
「そうしたら、あなたに掛かった魔法は溶けて」
「もうちょっと、もう少しだけ........」
「私の声は聞こえなくなります」
「嫌だぁ........嫌だぁ........っ!」
「大好きな人は、これからもずっと、ずーと健康で元気に長生きして」
「ずっと........僕と........」
「私の事なんか忘れちゃうくらい幸せになって........」
「................っ!」
「........それが........私の幸せです」
「................」
「私と........冬弥くんの........幸せです」
心が震える。
腕が震える。
それは僕の腕が震えているのか、彼女の腕が震えているのか、或いは──
彼女は涙をいっぱい瞳に浮かべて、無理やり笑顔を作って。
最後だって分かっているから、僕も笑おうとして、雪菜と同じ顔になっていて。
「もう........っ........さよなら........なんだ」
「........うん」
「もう........雪菜に........雪菜にぃ........あっ、会えないんだ........っ!」
「................うん」
雪菜の白い手の平が僕の頬に触れる。
それは冷たくも温かくもなくて。
僕の涙を優しく拭ってくれるけど、視界はぐちゃぐちゃのままで。
「冬弥くんと会えて........良かった」
「僕も........雪菜と会えて........良かった........良かったぁ........っ!」
「冬弥くんの恋人で........良かった........良かったよ........?」
「僕も........僕だって! 雪菜じゃなきゃ........雪菜じゃなきゃダメだった........っ!」
「................っ! 今日はクリスマスだから........恋人達の日だから........さ........」
雪菜の顔がゆっくりと近づいて、お互いのおでこがぶつかる。
「最後........だから........」
「雪菜ぁ........」
「........さよなら、冬弥くん」
「雪──」
僕の声を響かせようとした唇に彼女の唇が重なる。
それは、柔らかくて、温かくて、優しくて。
切なくて、嬉しくて、ほろ苦くて、甘くて、彼女との日々を思い出して。
「........んっ........ん........」
そんな思い出が色褪せない様に、ずっとこの時間が続く様に僕は目を閉じる。
「................」
彼女と初めてあった日。
初めてデートに行った日。
初めて告白した日。
初めて恋人になった日。
「........ん................」
雪菜と初めてクリスマスを過ごした日。
二回目のクリスマスを最後まで過ごせなかった日。
来年は家で料理を作ってのんびり過ごしたいと言ったあの日。
「................っ........」
その全てが鮮明な記憶となって僕の脳裏に焼き付く。
彼女の顔が、声が、匂いが、仕草が、全部、全部、全部が僕の中に溶け込んで、脈打って。
目を開けるのが怖くて、怖くて、
でも──
「........っ!」
ふと、頬に触れた冷たさに目を開けてしまった。
一度触れたその冷たさは、何度も何度も僕の身体に触れて、辺り一面を白く変えて。
「........雪」
僕の目の前から大切な人を消してしまったんだ。
温もりも、柔らかさも、切なさも、全部、全部、白く染めて。
「........綺麗」
なのに、汚れを感じさせないそれは綺麗で、何処か懐かして。
まるで、大好きだった人のように思えて。
「........さよなら」
僕は受け入れる事が出来たんだ。
「........................」
凍えるような寒さの中でも絶えず心臓は動く。
降りだした雪はすぐには止まない。
だけど、白い雪もいつかは溶けて泥になる。
だから溶けてしまう前に、
黒く汚れてしまう前に、
僕はもう一度、瞳を閉じる。
この白い雪に君の──
僕の鼓動を重ねて。




