父の遺産――「空へのあこがれ」
フウカは、母と一緒に駅にいた。手をつながれて、目の前の男性を見上げている。小学生の頃の出来事であろう。
父であった。制服を着て帽子をかぶり、カバンを提げている。航空自衛隊の士官であった。休暇を終えて隊へ戻るところであったのだろう。
「フウカを頼んだよ」
笑顔ではあったが、名残惜しそうであった。片手を挙げ、改札口へ入っていった。
それが、父の姿を見た最後であった。飛行訓練中に事故で墜落し、海へ沈んだ。捜索が行われたが、なきがらは上がらなかった。葬儀の際、棺桶に納められたのは、二階級特進した階級章が付いた儀式用の制服と帽子だけであった。母の滝子は、その上へ紙飛行機をそっと載せた。
フウカにとって父は毎日身近にいる人ではなく、月に数回、やってくる人であった。単身赴任であったので、仕方がない。しかし、帰ってきた時は、フウカと思いっきり遊んでくれた。良く飛ぶ紙飛行機を折るのが得意だった。家族三人で公園に行き、「飛ばしっこ」をした。
ある時、セスナ機を借りて遊覧飛行をした。フウカは母と一緒に後部座席に座り、窓の外を眺めていた。眼下の風景が珍しかった。住宅街を抜け、森や湖の上を飛行した。湖面から一斉に飛び立つ鳥たちに驚き、横を流れる雲の白さに見入った。
父はフウカに「空へのあこがれ」を遺産として残してくれた。その後、ハンググライダーに熱中することになったのも当然のことであった。
目が醒めた。涙が流れていた。胸が締め付けられるような夢だった。直後にノックの音がしたので、もう朝になったのだろう。準備室に移動し、身支度を整える。朝食は、トーストとサラダであった。キュウリとトマト、レタスのサラダが、パリパリしていておいしい。ほど良く焼けた五枚切りの食パンにマーガリを塗り、その上にアンコを塗り重ね、パクッとかぶりつく。温かいミルクコーヒーで流し込んだ。
椅子に背を預け、男のつぶやきと父の夢について考えた。
男の荒れた理由を「子ども過ぎる」「独りよがり」だと批判することは簡単だ。しかし、自分の身に置き換えたら、どんな事情があったにせよ母を捨てた父を許すことはできないであろう。
幸いにもフウカは、そんな思いをするなく、今日まで無事に過ごすことができた。これも母のおかげであろう。父がなくなってもグチ一つこぼさず、がんばってきた。辛かったこともあったろうが、フウカに暗い顔を見せたことはなかった。
ただし躾は、厳しかった。とくに「約束を守る」ことに関しては、徹底していた。浴室の掃除など当番をサボったりしたら、終わるまでご飯を食べさせてもらえなかった(そなときは、母も食べずに待っていてくれた)。
「やるべきことは、きちんとやりなさい」と、常に言われた。ちゃんとやり遂げたときは、すかさず褒めてくれた。「いつも見ていてくれる」という安心感があった。
「お父さんがいないのにフウカちゃんは、しっかりしていてエラいね」
近所のおばさんに言われたことがあったが、何のことかわからなかった。
修行に入って、五日目になっていた。礼拝室に戻ろうとしたら、見知らぬ女の人が入ってきた。質素な着物姿だ。
「本日から三日間、場所を変えて『ミソギ』をなさっていただきます。こちらをお飲みください」
白い液体の入った器を差し出された。とくに疑うこともなく、飲み干した。
頭がクラクラし、意識を失った。
気が付いたら、小屋の中に居た。先ほどの女性が白い着物、浴衣のように薄い物を着ていた。白い布で鉢巻きをしている。
「こちらに着替えてください」
女性と同じ装束だ。不審に思ったが、修行と言われれば仕方がない。言われた通りにする。下着をつけていないので寒い。
「今から約四十八時間、滝行と唱えごとをなさっていただきます。その間、飲食と睡眠は控えていただきます」
丁寧な物言いながら、ハードなことをサラッと言った。
「ええッ、聞いていないよ!」
思わず叫んでしまった。「苦しいことはイヤ」と言ったはずだ。
女性は、答えない。頭を軽く下げているだけである。ここでゴネたら、これまでの修行が無駄になってしまう。従うしかなかった、
小屋を出た。山の中であった。辺りは、紅葉に染まっている。小さな滝に案内された。幅は、ちょうど二人分くらいだ。滝の横に洞窟がある。
「こちらで滝に打たれながら『大祓えの祝詞』を唱を三十回唱えててください。
済みましたら洞窟へ移り、座って祝詞を唱え続けていただきます。小声でかまいません。約三時間です。滝行への移行は、鐘の音でお知らせいたします」
淡々と説明する。テレビで見たが、山伏などは、険しい山道を歩いたり滝行をしたりするなど厳しい修行を何ヶ月も続けるそうだ。「それに比べたら……」 ――なんて思わない。
(普通の女の子7が、やることじゃないよ)
そう思って憤慨したが、残念ながらフウカは「普通の女の子」ではなかった。実感はないが、「日本のみならず世界の運命を背負っている」らしい。これまでの体験で「バカバカしい」と、否定できなくなってしまっていた。
女性が先に滝の下へ入り、手招きをする。恐る恐る後に続く。
「ひゃ――、冷たい!」
肩を縮めてしまう。




