苦難の旅路――北斗七星に導かれ船団は進む
マオは、船の後半に設けられた屋形で胡坐をかき、小机の上に広げた竹簡を見つめ、考えにふけっていた。
屋形の広さは、二畳程度だ。
船は、樹齢二千年の杉の巨木(屋久杉と同種)から削り出した刳舟を基に舷側板を上に継ぎ足して吃水(船が沈む部分)を深くした半構造船である。梁(横角材)で補強し、船の前後は、高くなっている。
全長一四メートル、横幅三・五メートルで、漕ぎ手を含め四〇人近くが乗り込んでいた。
船首に針路を安定させるための小さな簀子状の帆があり、中央の小柱には、旗が翻る。図柄は、北斗七星と海亀だ。「神殿旗」である。
両舷で後ろ向きに座った漕ぎ手が櫂(オール)を握り、太鼓の音に合わせて身体を倒す。凪いだ海面を船は中・小の舟を引き連れ、ゆっくりと進んで行く。
マオは「剣妃」と呼ばれ「妃」の待遇を受けてはいたが序列は低く、五年も過ぎた頃には王の訪れも皆無となっていた。よって、ほとんど神殿に籠り、祭祀の他は読書と鍛錬に勤しむ毎日であった。「剣の守り人」でもあるので、誰も異議ははさまない。
神殿の役割は、天地の神に豊作や豊漁を祈り、吉凶を占い、神託を下すことである。それによって、民衆の信頼と貢納を得、国家の権威と財政を維持するのだ。武力だけで、領土を治めることはできない。
「占い」といっても、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」では民心は離れてしまう。結果を出さなければならないのだ。せめて七割くらいは、「当たり」を示す必要がある。
そのためには、「当たり」を引き出すためのデータがなくてはならない。天体の動きや天候の変化、植物の生長といった自然現象を長年に渡って観測・観察して記録することが基本作業となる。つまり「暦」の作成だ。
マオの生きた「戦国時代」は、各国で盛んに暦の研究がおこなわれた。現在でも季節の基準となっている夏至・冬至・春分・秋分などといった「二十四節気」も、この頃に組み立てられた。一般に言う「旧暦」、「太陰太陽暦」も同時期に確立した。「十干十二支」も、そうだ。
神殿は、天体や自然界の動きを観測・観察した他、農民や漁民の経験に基づく情報も収集した。人々の間で共有化された「経験則」は、「生のデータ」として非常に信頼性が高い。
とくに「越」のような海人族が多い国にとっては、潮の干満や流れ、風向きや雲の変化、魚群の動きなどの「生きた情報」が、欠かせない。収獲量は言うまでもなく、生死に直結するからである。
さらに言えば、地理情報も必要だ。漁場や自分の舟がいる位置などを見定めるための山や岬、水を汲める場所、また、海が荒れた際に逃げ込む島影や入り江などの情報がなければ、漁民としてやっていけない。
そうした膨大なデータを基に大体の予測を立て、さらには海亀の甲羅片を火で炙り、その罅の入り方によって神意を伺う「亀卜」もおこなわれる。
「神託」は、以上のような作業の総合結果として発せられる。単に「神様のお告げだから」と言われて信じるほど、民衆は愚かではない。
マオに多くの人々が従ったのも、神殿出身であり「剣の守り人」であるという要素が大きかった。
当時の航法は、陸地の形状をを目で確かめつつ漕いでいくしかなかった。
刳舟は不安定で転倒しやすく、大きな帆など張れない。半構造船であっても、重量物を船底に敷き、ようやくバランスを保っているくらいだ。中小の舟は、二艘ずつ竹を渡して結び付け、双胴船の形を取っている。
また、航行は日中しかできない。羅針盤がないからである。星座の知識はあるが、海の天候は変わりやすく当てにはできない。
したがって、天候や潮の具合を見ながら出航し、夜になったら陸に上がるといった方法で船旅を進めていくことになる。陸地との距離間隔は、「波が荒くなったり天候が崩れたりしたら、すぐに上陸できる」くらいだ。
要するに毎日、陸地に上がって水や食料を調達し、ノロノロと進んでいくのである。ときには現地住民と遭遇し、物物交換したり争ったりすることもある。こんな時、神殿旗が役に立つ。神に対する畏怖と敬意は、「海に生きる者」として共通しているからだ。
神殿から持ち出した地理資料(竹簡)を前に、今後の行動計画を考えていたのだ。
とにかく陸地沿いに北上するという大方針だけは、決まっていた。だが、細かい日程は、天候や潮流を見ながらということになる。
新暦での三月半ばに「越」の港を出てから、三ヶ月余りが過ぎた。地理資料によれば、後少しで山東半島の根元付近に達しようとするところであろうか。国から離れるほど情報は少なくなり不確かとなっていく。考え込むときが、多くなっている。
現地住民による情報が主となっていた。
昼過ぎ、波が高くなってきたので、早めに陸へ上がることにした。ちょうど近くに入り江がある。
舟は、浜へ引き揚げる。海は、いったん荒れだすと、すぐには収まらない。数日は、ここで滞在しなくてはならないだろう。
松林の中へ仮小屋を設け、森へ入り、水や食料の調達に向かう。磯でも、魚介類を獲る。夕刻になって各調達班が、獲物を手にして野営地へ戻って来た。
森からはヤマイモ(山芋類)やヤムイモ(里芋類)、浜大根などの野草、鹿や猪などが山積みされ、磯からはイセエビやサザエ、ハタなどの根魚が並べられた。
数人ずつ焚火を囲んで、調理にかかる。
イモ類は芭蕉(バナナ類)の葉に包んで少し掘り窪めた穴へ真っ赤に焼いた石と共に入れ、土をかぶせて、蒸し焼きにする。
肉や魚介類は頭くらいの石を三個置き、その上に銅板や金網、平たい石などを載せてバーベキュー台を作り、焼きながら食べた。調味料は、塩や魚醤(塩と魚を一緒に漬け込み発酵させた汁)だ。
マオは、巫女や船頭などと火を囲んでいた。
「ウェイ、そなたは『天』を、どう読む?」
焼き上がったイセエビの殻を剥き、白い身にかぶりつく。竹筒の酒をグイッとあおった後、顔を上げて問いかけた。
その姿かたちだけを見れば、元は「妃」であったなどとは、誰も思わないであろう。しかし、一つ一つの動作には一見、粗野に見えても上流階級の「品」が感じられた。
対面に座る男が、炎の明かりに照らし出された。
四〇歳くらいであろう。潮風で脱色した赤茶けた短髪、色褪せた赤の頭帯、深く刻まれた顔の皺、両肩の筋肉が異常なほどに盛り上がり、続く上腕も棍棒のようにゴツゴツして太くなっている。赤銅色の肌には、文身が踊っていた。
マオの乗る旗艦の船頭であった。
「……そうですな。
幸いにも、これまで大風に遭わずに来られました。
しかし、『立秋』を過ぎますと、そうはいきません。
これから一月余りで、渡海を済ませなければなりませんでしょう」
酒の入った竹筒を両手で握り、首を少し傾げながらポツポツと語った。
新暦での七月中に、目的地へ到達しなければならないということだ。
「……」
思っていた通りの答えだった。
マオは、唇を固く結んだ。
「遥か東方の海上に『扶桑国』という大きな島が、在るようです。
そこが、おそらく『蓬莱島』なんでしょうな」
海岸沿いの現地住民は、長江下流域から北へ向かった倭人が主となっていた。ルーツを同じくする者たちだ。言葉も通じる。よって、聴き取り情報は、それなりに詳しくなっていた。
倭人たちの話によると、ここから東方向に海上を進めば、行き着くことができるらしい。ただし直進することは不可能とのこと。途中に島一つなく、大海原が続くだけだ。間違いなく難破するらしい。
ため息しか、出なかった。
「扶桑国」とは、古代中国の地理書「山海経」に記載されている伝説の土地である。
扶桑は、東の果てにそびえ立つ巨樹で、そこから毎朝、太陽が上がってくるとされている。一種の理想郷として、言い伝えられてきた。後に、倭国(日本)が、その地であると目されるようになった。まさに「日出ずる国」だ。
「一月余りで、着けそうか?」
「とても無理ですな。
だいたいの位置はわかりました。
大きな湾の縁をグルリと回って半島に至り、そこからさらに海を渡らなくてはならないようです。民たちの話が正しければ、少なくとも二月半以上、かかるかと思われます」
ウェイは、あきらめ顔だ。頭を横に振る。
秋になれば海は荒れ、大風(台風)に見舞われる確率も高くなる。
(故郷を出立してから約半年か……、皆の士気を保つことができるだろうか?)
長い旅路で、心身ともに疲れ果てている。すでに百人近くが途中で脱落した。
これから先は、北方から下って来た異民族との接触も多くなりそうだ。争いも避けられないだろう。
解決の糸口もつかめず、思い悩みながら床に就くことになった。
ふと目が覚めた。
月の光が射しこんでいる。
とても静かだ。
マオは棒を携え、仮小屋を出た。
見上げると、満月である。
昼間は、どんよりと曇っていたはずだ。
不思議な気持ちで、周囲を見回す。
(不寝番の者たちが、眠りこけている。ありえない)
薄っすらと魔力のような気配が、漂っているのを感じた。
草むらが、ガサゴソと揺れた。
棒を構える。
何かが、ノソノソと這って出てきた。
月明かりに照らし出された「ソレ」は、大型犬くらいの蟾蜍だった。
マオの前で、止まる。スクッと立ち上がった。
前脚は二本だが後脚は、真ん中一本である。
案山子のように直立し、両手を胸の前で重ね、ペコッと頭を下げた。
(『青蛙神』か――)
マオは、心の中でつぶやいた。
神殿での修行時代に習ったが、実物を見たのは初めてだ。
「青蛙神」は月に棲み、「災いを予知する」と言われている。
(なぜ地上に……?
なぜ、我の前に現れた)