生贄志願した「森の娘子」――巨大なオロチと闘う(下)
毒霧は、完全に払われた。
「おまえは、ここまでだ。
離れていなさい」
自分の胸元に向かって話し掛けた。
「ワン!」
応えるような鳴き声がする。
仔犬が、両手と顔を出していた。
全身真っ白で、耳が垂れている。
異様に小さい。仔猫くらいだ。
ここに来るまでの道端で、座っていた。
三嬢が薬草採りに通う道の傍らに在る、石組みの祠の前だった。大人の腰の高さくらいしかない小さなものだ。
どのようなカミが祀られているのかは知らない。母は通りかかる度にしゃがんで拝み、野の花を供えていた。
野犬にしては上品で、汚れてもいなかった。
マオは、なぜか「縁」を感じて仔犬を抱き上げ、懐へ入れていたのだ。
頭を撫ぜ、そっと地上に下ろす。すると、チョコチョコと歩いて、草むらへ入っていった。
「さてと、いよいよご主人様のお出ましかな」
臭気が、増していた。
棒を地に突き刺し、手斧を取り出す。
「金剛力」の呪を唱え、手斧に強く息を吹き掛ける。
両脚を開いて大地を踏み締め、身体を斜に構えて迎撃の態勢を取った。
洞窟の奥にヘッドライトのような輝きが、二つ並んで見えた。
急に大きくなったと思ったら、巨大な頭部がヌゥーと穴から現れた。
ワゴン車くらいの大きさである。続いて出てきた胴部も、それに見合った太さだった。
直径は、二メートル近くあるだろう。
口を開いた。中は、赤黒い。威嚇しているのだろう。牙からは、黄色い液が滴り落ち、舌が、くねっている。
(あれって、ニシキヘビの仲間かな?)
少し離れた枝から見ていたフウカは、思った。ブルッと、身体が震えた。
表皮の模様が、似ている。だが、大きさは、比較にならない。やはり魔獣だ。
「さすがに大きいな。
人など、一飲みだろう」
ミカも、驚いている。
長さは推定で、四〇メートルくらいだろうか。
半身を広場へ出して、頭を持ち上げている。
「手助けは、できないんですか?」
フウカは、焦った。どう見ても、勝ち目はない。
「――ない。
天地の神の加護を願うばかりだ」
神聖女王でも、お手上げのようである。
ここでマオが飲まれたら、子孫である二人の存在も消えるかもしれない。
タイムラインは、融通無碍に変化する。
なぜ上半身だけであるのかは、わからない。しかし、動作範囲は、広場全体に及ぶ。また、毒霧を吐くこともできる。
マオは、四方八方に飛び跳ねて攻撃をかわし、隙を見て手斧を胴体へ力いっぱい打ち付けた。だが、表面に浅い傷を刻み込むことしかできない。
闘いは、小一時間ほども続いた。
山育ちで体力には自信のあるマオだったが、さすがに疲れ果てた。息が、荒くなった。
ここで、逃げ去ることは可能だ。しかし、二度と再挑戦はできなくなるであろう。
「シャッ!」
大蛇の首が伸びてきた。速い!
「バウッ!」
鋭い鳴き声と共に白い影が、脇から飛び掛かり、その喉に食いつく。
犬だった。だが、闘牛ほどもある。一トンくらいだろう。
しかし、その牙も蛇の皮を穿つことはできなかった。一振りで、落とされた。
すぐに体勢を立て直す。白い毛並みが、泥にまみれている。
飛び掛かり、跳ね返される。それを何度か繰り返した。
その間、マオは呼吸を整え、考えた。
(最後の「賭け」をするしかない)
「金剛力」の呪を、自分自身に掛ける。
大蛇が大口を開けて、こちらに迫って来た。
すかさず自ら口の中へ飛び込んだ。
両顎が、閉じられる。
――十数秒たった。
大蛇は、天を仰ぎ、大量の血を噴き上げた。
「ドサッ!」
地響きを立てて倒れる。
腹の下から、血やドロッとした内容物が溢れ出た。
モソモソと人が、這い出てくる。マオだった。
立ち上がって、顔に付いた汚物を片手で拭いとる。
もう片方には、手斧が握り締められていた。
体内に入って、一気に内側から切り裂いたのであろう。
周囲を見回す。大きな白い犬の姿はなかった。
よろめきながら森に入り、泉に身を沈める。
濡れネズミで岸に上がったときには、全裸だった。
水が冷たかったせいか微かに湯気が、立っている。
その上気した肌には、顔から脚にかけて赤い線模様が浮かび上がっていた。
文身であるようだ。
片手に下げた衣服を絞って枝に干し、大の字になって寝転んだ。
疲労の極にあったのであろう。
『何ですか? あれ』
後を追ってきた二羽の小鳥が、枝から見ていた。
むろんフウカとミカである。
『白粉彫りだろうな』
ミカが、答える。
越人は、一定の年齢に達すると文身を入れる。
海洋民族なので、サメなどの有害生物や海の魔物を寄せ付けないためのものである。
普通は墨であるが、フウカの場合は、特殊な染料を使っていた。お湯に浸かったり興奮したりして体温が上がると、浮かび上がるようになっている。母が、半年かけて少しずつ入れてくれた。
「へぇ――」
そう言えば「魏志倭人伝」にも、倭人の特徴として記されていると、日本史で習った覚えがある。
「マオの場合は、魔除けのためなんだろう」
さらに解説が、付け加わった。
「ところで、あの白い犬は?」
「式神だな。
たぶん母親が、護衛として付けたのだろう」
やはり三嬢は、方士だったらしい。
(それでも、大蛇にはかなわなかったのか……)
フウカは、両親を失い、天涯孤独の身の上になったマオの気持ちを思い遣った。
暖かな陽射しを浴びて、しばしの間、まどろんでいた。
目覚めると、もう木々の影が長く延びている。
衣服は半乾きではあったが、着られぬほどではなかった。
身支度を整え、洞窟へと戻る。
大蛇は、横たわったままだ。
細い枯れ枝を束ねて簡単な松明を作り、洞窟の中へと入った。
なぜ半身しか身を乗り出していなかったのかを、確かめるためだ。
穴の中は天井が高く広さもあるが、比較的浅かった。
ここでトグロを巻き一三〇年の間、隠棲していたのだろう。
大蛇の尾は、最奥の岩盤に縫い留められていた。
「一本の剣」によってである。
この巨大な魔獣にとっては、小さな針のようなサイズだ。しかし、それが、身動きさせなくなっていた。それだけの「霊力を持った聖剣」ということになる。
マオが柄に手を掛けると、簡単に引き抜くことができた。
洞穴を出て、陽の光の下で、剣をじっくりと検分する。
「越王勾践剣」であった。勾践自身が隠したかどうかは別ではあるが、噂は、本当だった。
(こんな物のために……)
多くの武芸者が命を賭け、挑み、そして、散っていった。
マオは、虚しさを覚え、脱力した。
直接関係のない両親が、図らずも一連の騒動に巻き込まれ、この世を去ることになった。
山道をトボトボと下る。
途中、あの仔犬が座っていた祠の前で立ち止まった。
よく見ると、木彫りの飾りが置いてある。
「根付」だった。手に取って、見る。
紐の付いた「印籠=丸薬などを携帯するための小さな容器」を、帯に挟んで留めておくものだ。見覚えがある。三嬢が、腰から下げていた。留め具の彫刻は、仔犬だった。白く塗られている。
(母さんが、残してくれたんだ)
初めて、涙がこぼれ落ちた。
嗚咽が、胸の奥底から漏れ出た。
あの犬は、方士としての三嬢の眷属だったのであろう。
フウカは、自分の帯に紐を結んだ。
道中、一歩前へ進む度に仔犬は、戯れるように揺れた。
樵小屋へ帰りついた。
ガランとした部屋の中を眺める。
幼いころからの思い出が、至る処に染みついていた。
(もう、ここには居られないな……)
辛過ぎた。
翌朝、荷物をまとめて小屋を出た。
剣を布に巻いて背負い、腰に手斧を差し、棒を持った。
一晩考えて、都へ向かうことにした。「越王勾践剣」を王宮へ届けるのだ。
報奨が欲しかった訳ではない。経緯を告げ、恨み言を述べたかった。
小屋に向かって一礼し、山道を駆け下りた。
少女の独り旅である。道行は、険しかった。だが、何とか切り抜け、都に着いた。
王宮の門で、案内を乞うた。
だが、衛兵は薄汚い小娘であるのを見て、せせら笑い、槍先で突いて追い払おうとした。
腹を立てたマオは棒を振るい、二人の男を打ち倒した。
その騒ぎで、上官が現れた。
マオは、背負ってきた剣を眼前に示した。
驚いた上官に導かれ、宮殿の奥へと進んだ。
剣を官僚へ渡す。鑑定が、なされるのだろう。
その間に宮女たちによってボロ服を剥ぎ取られ、浴室へ放り込まれた。
湯から上がると簡素ではあるが清潔な衣装が、用意されていた。
その日は、フカフカの寝具にくるまって眠ることになった。いちおう客人扱いということなのだろう。
朝食の後、王の前に引き出された。
マオは顔を上げ、臆せずに経緯を述べる。
「これは、確かに勾践王が打たれた剣だ。
邪神を留め置く楔として、岩床へ打ち込まれたと伝えられている。
これを、そなたが抜いたのか?」
王の側に控える学者風の年老いた男が、問うた。
「ああ、片手で抜けた」
マオは、淡々と事実を述べる。
男は驚愕の表情を見せ、王の耳元で何事か囁く。
磨き上げられた宝剣が従者によってマオの前に捧げられ、手に取るように言われた。
指示に従い、両手で柄を握り、縦に構えた。
剣の刃が、ボォーと青く輝く。
その場に居合わせた人々が、一様に目を見開いた。
王も身を乗り出して、見つめている。
輝きは、しばらくして収まった。
従者の捧げ持つ台の上に、剣を戻す。
「汝は、『剣の守り人』のようだな。
伝え聞いてはいたが、本当に実在したとは――」
フゥ―と息を吐き、国王「無彊」は、感嘆の声を上げた。
「……?」
マオには、意味がわからなかった。
「勾践王が鍛えなされた剣は、七本ある。
それぞれに『守り人』が、配されたという。
その内の一本が、郷を荒らす邪神を封じるために下げ渡されたそうだ。
まさに、この剣が、それであろう。
天地の神の思し召しか、百余年の歳月を経て再び本来の『守り人』と巡り合ったのだ」
先ほどの老人が、感慨を込めて語った。
越の国は建国から二八〇年近く立ち、国運が尽きようとしていた。
「楚」の侵攻を度々受け、防戦に追われていたのだ。国内は疲弊し、万策尽きたかと思われていた。
その窮地を救ってくれるものとして「勾践剣」と「守り人」が、求められた。巫女の託宣があったのだ。
だが、七本の剣は行方不明となり、所在が分かっていたのは、邪神を封じているという剣だけだった。全国から宝剣探索の武芸者を募ったのには、そんな事情があった。
マオは、シラケた気分でいた。自分が「剣の守り人」らしいことは理解した。
(いきなり『国を護れ!』と言われてもなぁ……)
マオとしては、両親の無念を晴らしたかっただけだ。国から何か恩恵を受けた覚えもない。
「面倒なことになった」と、思った。
即答は、しなかった。
しばらく都に滞在することになった。
ある日、頑雄の友人だったという男が、訪ねてきた。若き日、共に街を護っていたという。「武侠の人」であった父の思い出を語って聴かせた。
たぶん王の側近による工作であったのだろう。しかし、父の活躍が、目に見えるようであった。熱い思いが、胸に込み上げてきた。
「なぜ父は、そんな苦労を買って出たのでしょう?」
「武侠の人」は、原則として報酬を求めない。とくに壮大な目的や目標も、持たない。ただ「義侠心」だけで動くとされている。
「弱きを助け、強きを挫く」と言えば格好は良いが、それだけが目的なら自己満足に過ぎない。「自分の命を賭ける動機としては、弱いな」と、マオは思った。
だがら、尋ねた。
「確かにわかりにくいかもしれないな。
だが、頑雄は、単に『粋がっていた』わけではないぞ。
『国のため』とか『街のため』『人のため』とかいう大義名分も口にしなかった。
肩肘を張らなかった。
たぶん嘆き悲しんでいる人を見過ごすことが、できなかっただけなんだろうな。
普段は穏やかで、優しい男だったよ」
男は、しみじみとした口調で言った。
マオの中で、ストンと腹の中に落ちる思いがあった。
(一方的に与えられた運命であるかもしれないが、その中で、自分の思うまま、感じるままに動いてみよう)
そう決意を固めた。
王宮へ向かい、王の側近に「守り人」となることを承諾した旨を伝えた。