生贄志願した「森の娘子」――巨大なオロチと闘う(上)
紀元前320年頃、春秋戦国時代、中国大陸南部にあった「越」の国――。
邪神の棲む深い森は、薄暗く靄が掛かっていた。
樹間から射す陽が、はっきり見える。
賑やかはずの鳥のさえずりも聞こえない。
湿った草を踏みしめながら、慎重に足を進める。
上衣が、滲み出る汗で肌に貼りつき、不快だった。
猪の毛皮を上に着込んでいるせいもあったかもしれない。
革鎧の代わりである。袖なしの簡単なもので、前を紐で編み結んでいた。
下は、短袴(半ズボン風)、素足に草鞋だった。
固く引き結んだ腰の帯には、手斧が差し込んである。
(――臭う。
巣穴は、近いな)
マオは、思った。
フウカとミカは木の枝で、少女を見下ろしていた。
二羽の白い小鳥に、姿を変えている。インコの様だ。
少女は、一五歳くらいであろうか。
どこかへ、向かっている。
その態勢と足さばきから見るに、森歩きに慣れた者なのだろう。
近くの草むらが、微かにザワついた。
『玃猿が、狙っているな』
ミカが、つぶやく。
『カクエン?』
フウカが、問う。
『女好きのバケモノだ』
吐き捨てるように言った。
カクエンは、一三〇〇年生きたアカゲザルが魔獣となったものである。
見かけは、年老いた猿だ。身長一六〇センチ。地肌は青黒く、人間のように歩く。
メスが、いない。林に潜んで水汲みや薪拾いにきた若い女を襲い、子を孕ませる。
(ゴブリンみたいだな)
フウカは、思った。
ゲームやコミックに、よく登場する小鬼だ。
『注意しなくていいの?』
『ああ、大丈夫だろう』
平然としている。
「キ、キキキッーー」
甲高い鳴き声とともに物陰から飛び出して、背後から襲い掛かった。
しかし、目の前から獲物が消えた。
次の瞬間、カクエンの首は、宙を飛んでいた。大量の血を撒き散らしながら、ドサッと倒れる。少女が、トンと軽く跳躍して振り向きざまに手斧を振るったのだ。
一回転して地に降り立つ。すぐに草で刃に付いた血を拭い、腰に戻した。
何事もなかったように再び、歩き出す。
フウカには手斧の動きが、ほとんど見えなかった。
(彼女が、遠い御先祖様かぁ――)
強さに、驚いた。
(お出迎えは、まだまだ居そうだな)
左右の気配を探る。
手にした身長より少し高いくらいの棒で、先の草むらを払いながら進む。
やがて広場となっている所へ出た。
一面に漂う瘴気のせいか、草一つ生えていない。
獣や人の骨が、散乱している。
正面の崖には洞窟が、ポッカリと口を開けていた。
最初に出迎えたのは、十数匹の狼だった。
ただの動物ではなさそうだ。目が、赤く爛れている。魔獣の類であろう。
低い唸り声を上げながらマオを取り囲み、そろそろと輪を狭めてくる。
棒を縦に構え、瞑目して呪を唱えた。
「ギャイン!」
目を閉じたのを隙と見て、一匹が飛び掛かる。
「ブウン!」という空気を切り裂く音と共に棒が旋回し、狼の胴を払った。
魔獣の身体がすっ飛び、大岩に叩きつけられる。
次々と襲い掛かる。
マオは高々と跳び上がり、空中で打ち砕いていく。
ときには三メートル近くも跳躍し、左右前後に棒を振るう。
半分ほど片付けたところで群れは四散し、森の奥へと姿を消した。
代わりに現れたのは、蜂の大群であった。オオスズメバチに似ている。
黒雲のような密集陣形で爆音を響かせ、突撃してきた。
「ヒュィ、ヒュィ」という指笛が、鳴る。
それまで静かだった樹間が、にわかに騒がしくなった。
鳥の群れが、空から滝のように舞い降りてきた。
それぞれ空中で、蜂をついばむ。
マオは、指を口から離した。
一時の饗宴を終えた鳥たちは、去っていった。
「これで客への馳走は、終わりかな?」
穴に向かって、少女は言い放った。
間髪入れず、洞窟の奥から黒煙が、噴き出してきた。
『毒霧だ。
離れるよ』
ミカの声に促されて、フウカも止まっていた枝から飛び立った。
霧の届かない距離でホバーリングしながら、状況を見守る。
上空から眺める広場は、黒煙で満たされていた。
だが、中心部分から風が巻き立ち、霧が吹き払われていく。
『すごいな。
手斧と棒を自在に操り、身も軽い。
鳥使いで、風も操れる』
ミカが、感服したように言った。
『だったら、勝てますよね』
フウカが、期待を込めた声で尋ねた。
『……ウーン。
まだ、ヤツには、かなわないだろうな』
悲観的な評価を下した。
『そんなぁ……』
これ以上の「奥の手」を持っているのだろうか。
不安で、胸が苦しくなった。
マオが育ったのは、東シナ海に面した入り江の村だった。
山が迫っている扇状地である。農耕に適した平地は少ないので、人々は半農半漁の生活を営んでいた。
だが、マオの家は、集落を見下ろす山の中腹にあった。
父親の字名は、頑雄。樵である。ときどき狩りもする。
母親は、三嬢。山で薬草を採って調合し、村へ卸していた。
1人娘のマオは森の中で遊び、鳥や小動物たちを友として自由気ままに過ごしてきた。
読み書きの他、生きていくのに必要な知識は、母が教えてくれた。
父からは、剣術と棒術、さらに手斧の使い方を仕込まれた。
「武侠」の人であった。若い時は「越」の都で、街の治安維持のために剣を振るっていたらしい。今でも、海賊や野盗が村近くへ現れたら、駆け付ける。
三嬢は、不思議な人だった。寡黙ではあったが教養があり、本草学に詳しかった。
「方士ではないのか?」と噂されている。
ある村人が、茸を採りに山へ入った。ふと山頂付近の空に目を遣ると、人らしき影が飛んで来る。その影は森に中に降下し、見えなくなった。
しばらくして山道を下ってくる三嬢と、すれ違った。薬草を詰めた籠を背負っていたので、一仕事した後なのだろう。挨拶を交わし、別れた。
そんなこともあって村の人は、「森の仙女様」と呼んでいた。家では治せない病やケガを負うと、三嬢たちが暮らす樵小屋へと足を運んだ。
一家の穏やかな生活は突然、断ち切られた。
その年は、酷い旱魃に見舞われた。海も荒れ続け、漁に出ることができない。
人々は「祟りだろう」と、考えた。
ここ二、三年、山奥にある洞窟を目指して武芸者たちが、集まってくるようになった。
「越王勾践」が聖剣を隠し、「大蛇に守らせている」という噂が広まったせいだ。現在の王が聖剣を求め、莫大な報奨金を用意しているとのことだった。
その洞窟は、かつて山の神の祠として、祀られていたものだった。越人は、竜蛇をカミとして畏れ敬っている。しかし、騒ぎが大きくなってからは、祀る里人の足も遠のいていた。
山奥の洞窟へ向かった武芸者たちは、一人として戻ってこなかった。
そんな中で村の呪術師が、託宣を下した。「九人の処女を生贄として大蛇へ捧げよ!」という内容である。村人は、それを受け入れた。カミが災厄を収める対価として生贄を求めるのは、一般的なことだったからだ。
二日に一度、一四、五歳の少女が、洞窟の前へ供えられた。
半月余りたったとき、マオたちの樵小屋へ一人の少女が、駆け込んできた。
少女は、マオの顔見知りであった。山菜を摘みに、近くまでやってきていた。そんなときは、一緒に遊んだり語り合ったりした。友だちと言っても良いくらいの間柄だった。
話を聴くと、九番目の生贄に選ばれたのだという。それで、逃げてきたのだ。
頑雄は腕組みして、ジッと耳を傾けていた。
「わかった。嬢ちゃん、安心しな。
おじさんが、何とかしてやる」
ニコッと笑い掛けながら、言った。
翌朝、いつもの仕事をおこなうかのように鉞を肩に担いで、小屋を出ていった。
――そのまま、帰ることはなかった。
二日後、今度は三嬢が、出かけて行った。
前夜、物置でゴソゴソと何事かやっていた。
朝になって、フウカは見知らぬ母の姿に驚いた。
白衣をまとい、杖を手にしている。まるで仙女の絵姿そのものであった。
「マオ、あなたには、独りでやっていけるだけの知識を与えてある。
自分らしく強く生きるんだよ」
ギュッと抱きしめ、囁くように言った。
外に出ると、追いすがろうとするマオを制し、杖を振った。
まばゆい光が放たれ、母の代わりに美しい白鳥の姿が現れた。
大きく羽ばたき、飛び立った。
山奥をめざしているところから見て、父を探しに向かったのであろう。
マオは、その場で母が消えていった空を見つめているしかなかった。
その日、村人たちが小屋へやって来た。
親族が、少女を返すように迫る。
「私が、身代わりとなります」
きっぱりと、言い切った。
村人はマオのことを「森の娘子」と呼んでいた。「娘っ子」という意味だ。
ちょっと変わり者であったが、悪い印象は持っていない。
そんな女の子の申し出に躊躇ったが、他所からやってきた人間だ。地付きの者ではない。
すぐに承諾した。少女を引き取って、村へ帰って行った。
次の日には準備を整え、洞窟へ向かった。父と母が何をしようとしたかは、すぐにわかったからだ。勝てるという自信は、なかった。しかし、一矢報いなければ、気が済まなかった。