今は昔、君は昔、今と昔
1
あれはもう八……いや、七年前だったか、そいつの父親は大手の機械メーカーに勤めていた。
本人いたく、随分と優秀だったようで、あらゆる部署から引っ張りだこだったらしい、休みは決して多くはなかったそうだが、給与は多く妻子に恵まれていたためか、それなりに満足していたそうだ。
しかし、当人には確固たる夢があったのだ。それは自分の会社を持つこと、一国一城の主になりたかったそうだ。そしてその夢を諦められなかったその父親はとうとう大手の会社をを辞め自分の会社を興した。
だがそれは高いリスクを伴う行為だ、工場、事務所、人件費、材料費、税金。様々な要因が彼を苦しめていったが彼は幸運だった。
彼の妻はその恐れ知らずの愚行とも呼べる行為に理解を持ち、貯金を切り崩し、自らも務めていた会社を辞め旦那の会社で身を粉にして働いた。
傍から見たらさぞ美しいストーリーだろう。
だが、現実は夢のように儚くも、理想のように華やかなものでもない。
ある日父親と母親は些細なことで口論になった、何やら取引先に渡す見積書が紛失というのだ。
父親は事務方をしていた母親を責め立てたがその実、見積書は父親のデスクから出てきた。
そのことに酷く腹を立てた母親は父親を詰り、きつい言葉を浴びせ続けた。
滅多に怒らない母親だったがその日ばかりは珍しく父親を罵った、何十分も。日頃の不満が爆発的したのだろう。
そんな1分が何時間にも感じる重たい空気が一つの衝撃音で弾けた。
非難の対象であった父親は耐えかねてついに母親に手を出してしまった。
それからだ、全てが狂ってしまったのは。
母親は、怯え、それを誤魔化すように酒に依存した。
父親は、傲り、何かにつけて力をちらつかせるようになった。
そしてそいつは、息子は二人の変化を受け入れられず何度も縋った、何度も言葉を交わした、緩衝材として何度も二人の衝突を受け止めた。
だが、そんな努力も虚しく、ある日リビングに一枚の紙が置いてあるのに気がついてしまった。
そこにあったのは離婚届、そして母親の名前と判が押してあった。
それを見た瞬間指先からすーっと血の気が引くのを感じたよ、震える指でその紙を掴んで詳しく見てもその一枚は俺たちの別離を意味していた。
そのただの紙切れ一枚に全てを否定された気がした、今までの全てを。
全身から力が抜けて自分を形成する中身が流れ、失っていくのがはっきり分かった。
そいつはそれから何もしなくなった。疲れてしまったんだ、全てに。
ただただ無気力に時が過ぎるのを待った。
だからかもしれない、その紙が見つかってから半年が経った夏、最後の諍いが起きてもなんとも思わなかった。
* *
我ながら長く語った。
疲れた。体力的にも精神的にも。
「これで、終わりだ」
俺がそう告げると花岡は何故か物悲しそうに顔を歪ませていた。
そんな顔はやめてほしい。
そう思って口を開いても掠れた音ばかり出てくる。舌の根が乾いてしまってしょうがない。
俺は言い訳を諦めて、冷めてしまったコーヒーに口をつけ、項垂れる。
「その人はどうすればよかったのかな?」
切実な声が静謐な部屋に響く、そんなものは俺が知りたい。
失敗した人間に成功の仕方を聞いても要領など得ないだろう。
突然、びりっと脳に何かが痺れる感覚に襲われあることに気がつく。
….…ああ、そうか。やっと分かった、俺は後悔してたんだ。
出来たばかりの傷口を癒したったんだ、胸に残った蟠りを吐き出したかったんだ。
だから、彼女に勝手に同情して、勝手に未練を押し付けていたんだ。
そんな自分に嫌気が差す。
「さあな、きっとどうしようもなかったんじゃないか」
溢れ、収まり切らなくなった想いは情けなく口から漏れる。
だが、俺の弱さを斬りつけるように彼女はキッと顔をあげる。
「そんなことないよ」
「じゃあ、花岡さんならどうするつもりなんだ?」
足掻きのように吐き捨てると彼女は少し口角を上げて微笑んだ。
「だから一緒に考えてほしいの」
「考える……って、部外者の俺が?」
「うん、今度は私の話を聞いて一緒に考えてほしい欲しい」
聞いてどうする?俺ごときが何か為すことができるとでも思ってるのか?
「聞いたって何かできるってわけじゃないだろ」
ふて腐れた俺の言い方の何がおかしかったのか彼女は「そうかも」とくすりと笑って自信たっぷりに答えた。
「でも、諦めたくないんだ」
向けられた一部の揺るぎもない瞳、そんな目が羨ましくて憎たらしくて……本当に参る。
俺は肩を竦めてかぶりを振る。
「わかったよ、でもあんまり期待はしないでくれ」
その俺の捨て台詞のようなものを了承と捉えたのか彼女はこほんと咳払いして昔話の口火を切った。
2
えっとね、私昔クラスメートにいじめられてたの。
「花岡さんがいじめ?似合わねぇな……」
反射的に入れてしまった俺の茶々はいきなり話しの腰を折ってしまったようで花岡は少し静かにするようにむっとした表情を俺に向ける。
いやだって……花岡さんみたいな人でもそうなるってちょっと意外……。
俺の反応が嫌みったらしく聞こえたのか鼻をふすっと鳴らすとこちらをじとと射すくめ注意してからまた話を続けた。
今考えてみればいじめられてたのは結構おかしな理由だったと思う。
私は当時、ある仲のいい子とよく遊んでたんだけど、当然私の友達はその子だけじゃなかった。その子の誘いを断ることもあったし、違う子と遊ぶことだってあった。
そんな自由奔放な私を見て怒ったのか、ある時からその子は私の誘いを断って、距離を置かれるようになった。
一緒に話してくれることも、挨拶さえも返してくれなくなって無視をすることが常になっていった。
そして、ある考えがクラスの全員に普及し始めたんだ、それは"友達の敵は自分の敵"。
その一言を俺に告げると花岡は呆れたように鼻で笑った。
おかしいよね、別に自分は嫌なことされてないのに、自分の友達が"あいつ嫌い"って言ったら自分もそうじゃなきゃいけない。
仮想敵を作ることでみんな団結するんだよ。
仮想敵、その一言は彼女の内面にある黒い何かが浮き出たもののよう感じて俺は固唾を飲み込んだ。
花岡はおもむろに天井を仰ぐと軽く唇を噛む。
あの時は最悪だったなぁ、知ってる?女子のいじめって陰湿なんだよ?上履きを隠される、リコーダーを隠されるなんて序の口。
給食にゴミを入れられたり、ノートに落書きはまだいい方、書いたところを全部切られて捨てられたこともあるなぁ。
震え混じりの声に部屋の照明が反射している瞳は潤んでいる。
だから私にはお父さんとお母さん、家族しかいなかった。
だから私はお父さんとお母さんの言いつけを守った。
それが私の変わらない、唯一の拠り所だったんだ。
それきり花岡は口を閉ざし、ときたま鼻をすんと鳴らしている。
どうやら、彼女の話は終えたようだ。
俺たちの告白は真っ黒でどろどろとしていて、ほんと最悪だ。
全てを曝け出して、それでもなお残ったのは後悔の禍根。
こんな懺悔じみた行為になんの意味があるんだと問い直してみたい。きっとそれすらも意味はないのだろうけど。
そう考えてしまうと、さっきの花岡の言ったことがやたら正論に思えてしまう。
手を伸ばして傷つくのなら諦めてしまえと。
でも、それは彼女の願いじゃない。
だからこそ今もこうして悶え苦しんでいるのだろう。
俺は顔を上げ彼女をじっと見た。
「それなら、榎本と千晶はどうなる?」
「それは……こーへーには関係ない」
顔を背けて帰ってきた声は力ない様子。
触れて欲しくない話題かも知らないがこの関係を終わらせると明言した以上踏み込まなくてはならない。
俺は前から手を引くことはできないが、後ろから背を押すことはできる。
「確かに、俺には関係ない。でも花岡さんにはある、よね?」
俺の問いに伏せた顔をがばっとあげ、こちらに顔を向けてくる。
「でも!……今は関係ないよ」
「いや、ある」
俺の否定に彼女はぴくっと体を震わた。
俺も一度間を取るように深呼吸してからその根拠を述べる。
「さっき花岡さんは"私には家族しかいない"って言ったよね」
「う……ん」
不承不承の相槌を確認しながらゆっくりと俺は言葉を紡いだ。
「幼い頃の残酷な出来事はもう済んだことだから仕方がない、でも今花岡さんの周りにいる人はそんな人達じゃないでしょ?」
「そんなの……分からないじゃん」
沈痛な面持ちの花岡を諭すように俺は最近のことを列挙する。
「でも、俺はそうは思えない。つい先日千晶と榎本が俺ところに花岡さんの様子を聞きにきたよ」
「えっ!?」
よほど驚いたのか花岡は困惑混じりに立ち上がって俺を見据える。
「な、なんて聞かれたの?」
そんな不安げな声を和らげるためにも俺は少し笑い含んで答える。
「大したことじゃないよ、最近元気がないとか色々大変なんじゃないかって」
それを聞いて少し安心したのか花岡は再びちょこんと椅子に座り直し床へ視線を落とした。
その様子を見て俺は一つ確信に至る。
花岡は昔のことを今でも気にしている、友人におけるトラウマ、人間関係の脆弱性、堆積した友情の崩落。
誰だって高いところから落ちるのは怖い、ましてや地べたとの落差があればあるほど落下の恐怖は強まる。
確かに千晶も榎本も勉強ができるという風貌には見えない。
友でも共感し得ないものを持つということを裏切りと捉えている節が彼女が惑わす原因だろう。
だが、あの二人は面白半分で花岡の友人をやっているようには見えない。
そうでなければ、話したことのない奴に警告などしない。
そうでなければ、話したことのない奴に花岡のことを探りになぞ来ない。
榎本と千晶の真意は未明だが、これだけは言える。
「今の花岡さんの周りには花岡さんを心配してくれる友達がいるんじゃないかな」
「そう……なのかな」
花岡はそう言って顎を掲げ、ぼうっと天井を眺めている。
これが彼女にとって最良かは分からない、また傷つくだけかもしれない。
でも諦めたくないと言った彼女の言葉を嘘にしたくないその一心から出た言葉だった。
「そう、だと願いたいね」
「……うん」
分かっている、こんな話に結論など出ないことを。
人は口では何とでも言えるのだ、愛してるだの、好きだの、俺たちズッ友!とか。
人は嘘をつく、そしてそれは証明できない。
ならどうするか、その答えは単純明快。
解なし、もっと言えば神のみぞ知るというところだろう。
つまり、人間関係とは不確定で不透明で未知。
そんな暗澹に勇んで足を踏み出せるのは恐れ知らずの馬鹿か、全てを飲み下した狂人のどちらかだ。
そんな沈鬱とした空気を突然机の上の携帯のバイブレーションが劈いた。
ブーッブーッと立て続け鳴り、液晶画面に白い文字が浮かび上がったのを見て花岡はゆっくりと携帯を持ち上げた。
「お父さんだ……」
そう言って彼女は携帯を持ち上げると俺に見せてくる。
「どうしよう……」
その瞳には困惑の色が浮かんでいたが俺にもどうしようもない。
「俺に聞くなよ……」
情けなく佇む俺達を急かすように無機質なバイブレーションは鳴り続けていた。