玖、夏の夜に二人は出会う
術者の修行と学業に励んでいる間に、春日女子高等学校での一学期はあっという間に過ぎて行った。
幸子さん達と暫しの別れを惜しみ、賢木美弥子様の強烈な視線を受けながら学び舎を去った佳乃子は、夏季休暇に入る。
少し実家に顔を出した後に嶋田家へ戻り、佳乃子は『アルバイト』という行為を始めることにした。
座敷の中央、漆塗りの台の上に青磁の壺が鎮座する。
佳乃子が目を凝らすと、壺の後ろに影が見えた――髪の垂れ下がる、痩せた女のような体形が……。
佳乃子が意識を集中させると、目の前に子犬が現れて飛び掛かる。
喉元に食らいつくような動作を見せると、壺の影は消え去った。
一息ついて壺を見直すが、もう影が見えることはない。
「これで問題ないと思います」
「お疲れさまでした」
自分の背後、開いた襖の所で見ていた篤子に声を掛けると、彼女は事も無げに壺を手に取る――佳乃子にとっては、魑魅魍魎よりも、壺の値段が恐ろしいところである。
「気配を感じません……祓いの力にも慣れてきましたね」
鈴懸家に寄越された、曰く付きの品――悪霊が取り憑いていたり、人の手によって呪いが掛けられていたりする、それらの選別や祓いが佳乃子の仕事だ。
駆け出しの少女に寄越される物など大して危険はないが、仕事をこなすにつれ、力の成長を感じつつあった。
「今日はこのくらいにしておきましょうか」
「まだ行けますっ」
「……過信は禁物ですよ」
窘めるように睨む篤子に、思わず身を竦める。
優しい師匠であるが、やはり顔が怖い。
「夏季休暇に入ってからも、貴女はあまり家から出ずに……務めに励むことは良いのですが」
「私には、あん……」
「あん……?」
「あん、なに必死に育ててくれた両親に、少しでも恩返しがしたいんです……」
俯いて、なるべく師と目を合わせないようにする。
『あんみつが待っている』なんて、口が裂けても言えない。
暫しの沈黙の後、そっと目線を上げると――涙を拭う師の姿。
「あなたは……そこまで……ご家族の事を……」
佳乃子が慰労会の資金を貯める中、こうして、率川家のお嬢さんの株が上がっていくのであった。
夏季休暇も半ばに入った頃、嶋田家に急ぎの文が届けられた。
受け取った篤子は内容を確認すると、困惑の表情を見せる。
「最近、芝辻の方面に穢れが出現していて……宗像家の“祝”の方々が鎮圧に向かうそうなのですが……霊視の力を持つ者が欲しいと要請があって……」
芝辻駅は、ここから一駅隣。
飲み屋さんが並ぶらしいので、佳乃子には縁がない。
「今、動ける者が鈴懸家に居ないのです。ですから、佳乃子さんに手伝いを、と」
「はい、行きます!」
篤子の心配を余所に、佳乃子は即答した。
“祝”の働きを間近で見る、めったにない機会だった。
遙か昔から存在する魑魅魍魎。
それらは、人々の体と心を餌にして成長し、穢れを振りまく。
生者のみならず、死者の怨念も古くから根付く我が国を守るのが術者の務め。
“巫”と呼ばれる術者達は女性に多く、舞神楽を以て土地を浄める。
そして、“祝”は魑魅魍魎そのものを滅ぼす力を持つ。
迎えの車に乗り込んで、隣駅に着いたのは、草木も眠る丑三つ時――
仮眠を取ったとはいえ、まだまだ眠い。
あくびを噛み殺しながら、駅の周辺を歩く。
「大丈夫かい、お嬢さん」
先導するのは警吏の制服を着た青年二人と、大きめの外套を纏った少年が一人。
「はい、問題ありません」
佳乃子は、篤子の後ろでおずおずと答えた。
『佳乃子さんは私が守りますから、絶対に前へ出ないように』
そう言いつけた篤子は、すでに霊力で生み出した狛犬を従えている。
周囲を警戒しながら歩いていると。
「……来たか」
ぴりっと肌を刺す感触――これが、穢れの気配か。
佳乃子たちの周囲を黒い靄のようなものが囲む。
実体を得るまでに成長した穢れというものは、生半可な力では祓えないらしい。
「……お師匠様」
「ええ……佳乃子さんは動かないように」
警吏たちが腰に下げた刀を抜いた。
彼らの持つそれの刀身が仄かに光を帯びる――これが、二人の“祝”としての能力のようだ。
「露払いは任せてくれや」
少年が腕を振ると、風が巻き上がり靄を切り裂いた。
「行くぞ」
警吏達が切りつけると、靄は少しずつ消えていく。
佳乃子に近付こうとするものは、篤子の狛犬が噛み千切る。
あっと言う間に靄は消え、夏の熱気だけが残る。
(……すごい……)
佳乃子は微動だに出来なかった。
完全に蚊帳の外である。
(こんなのと、戦うなんて……無理そう……)
ちょっと心が折れそうだった。
「嬢ちゃんには刺激が強かったかな」
少年が、佳乃子の頭を撫でる。
外套から覗くのは、金鍾山学園の制服。
佳乃子よりちょっと背の高い彼は、高等部の生徒なのだろう。
「……しかし……あっけなさすぎるな。まだ親玉がいるのか?」
「そのようだ……だが」
再び、肌に嫌な感じ。
散ったはずの靄が、再び集まる。
「頭を叩かなければいけないか?」
「斬るまでだ」
三人が再び構える。狛犬も低く唸り声をあげた。
その時、佳乃子の耳に小さな叫び声が届く。どうやら子どものようだ。
「兄貴、ここは任せた」
声のした方へ少年が走り出す。
「私も行きますっ」
小さな子どもが巻き込まれているなら――篤子の静止する声を背に、佳乃子は駆け出した。
(いたっ)
佳乃子が辿り着いた先には、倒れる人影。
街頭が照らすのは、擦り切れた着物の幼子だった。
「坊主、大丈夫か?」
少年が幼子を抱きかかえる。彼は昏倒したまま、反応が無い様子。
(どうしよう、子どもが襲われたなんて……)
せめて出来ることを、と佳乃子は周囲を見渡す。
危険はないかと目を凝らし――幼子の後ろに、赤黒い影が見えた。
牙を剥き出して、少年の首元へと手を伸ばし……
「駄目!」
佳乃子は咄嗟に体が動いた。
指先に意識を集中させ、子犬を呼び出す。
「お願いっ」
指差すと幼子の姿をした悪鬼へと飛び掛かる。
腕に噛み付くが、あっさりと振り払われた。
子犬は地面に転がると姿を消す。
(うそ……いつもの時と、全然違う……)
佳乃子は意識を手放しそうになり、その場に座り込んでしまった。
徹夜で内職に励んだ時のような体の怠さに、全力で走った後のような息苦しさ――これが、霊力が尽きたという感覚なのだろうか。
「お前……」
幼子の正体を察した少年が短刀を取り出し、それの胸に突き立てる。
醜悪な叫び声を上げたのち、塵となって消滅した。
佳乃子の荒い息遣いだけがその場に響く。
「すまねぇな、嬢ちゃん」
少年は佳乃子の目の前まで来ると、膝を付いた。
立てるか、と手を差し出してくる。
「よく兄貴にも言われるんだ、情に流されるなって」
「い……いえ……お役に立てたのなら……」
どうにか呼吸を整えた佳乃子は、彼の手を取ろうとして、ある一点に目が行く。
外套から覗く金色のバッジ。
見覚えのある鐘の形。真ん中には、“中”の文字。
つまり、彼は――
(まだ中学生じゃない)
佳乃子は彼の手を借りずに立ち上がる。
「元気だな、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんじゃありません」
少しつま先立ちになり、立った彼を見下ろす姿勢を取る。
「私、高等学校の、お姉さんだから」
手巾を取り出し、呆気に取られる彼の顔を乱暴に拭く。
汗や埃で汚れているが、かなり整った顔立ちではある。
ついでに外套の皺を伸ばして、最後に両肩を一叩き。
「子どもが大人ぶって、危ない事しないの!」
ふん、と鼻息荒く踵を返す。
追いかけてきた篤子に「帰りましょう!」と声を掛け、向こうを驚かせた。
率川佳乃子、十五歳。
年下に『お嬢ちゃん』扱いされるという、屈辱の日であった。