陸、新しき乙女の園へ
花の雨に包まれる歩道を進み、見えたのは白き学び舎。
春日女子高等学校も華族の女子を養育する機関であるが、佳乃子がこれまで通っていた櫻川女子学院とは違い、一部の庶民にも門戸を開いていた。
歴史こそは長いが、『変わりゆく時代の中で良き女性を目指す』――以前の佳乃子の同級生なら、首を傾げてしまうような理念を掲げていた。
どこかに嫁ぐだけでなく、就職やまだ数少ない大学への進学も進路に含まれているらしい。
入学式を終えて少し経った頃、佳乃子は春日女子高等学校への通学を始めた。
霊視の能力を制御する――これだけで、思いの他時間が掛かってしまった。
入学式に間に合わなかったことを篤子はひどく残念がっていたが、佳乃子としては別に構わない。
(あんまりいい思い出もないし……)
櫻川女子学院の入学式では、他のお嬢様達から色々と値踏みされたものだ。
翌日から、佳乃子は誰からも相手にされなくなった。
家格や何やでお嬢様方の派閥はもう形成されているだろうから、自分は隅の方で大人していよう――そう構えている佳乃子の御召し物は、赤い矢羽絣に紺の袴。
流行り廃りに影響されないお気に入り。
祖母の御下がりはすっかり駄目になったので、此方には母の御下がりを持ってきた。
髪に結んでいるのは、頂き物の赤いリボン。
別珍素材に白い刺繍の舶来物だ。
佳乃子が嶋田家に来た当初、夫妻は『進学祝い』にと装飾品を買いに連れて行ってくださった。
さらには、柘植の櫛と椿油まで。
そんなことまで申し訳ない――と、最初は固辞したのだが、嶋田健司の『鈴懸様の名を借りて学校に通うんだ、そんな古い箒みたいな髪じゃあ締まらねぇや』というお言葉を受けて、頂戴することにした。
髪の手入れも頑張るようにしている。
良くも悪くも闊達で言葉を選ばない健司とは、結局、『おじさん』『佳乃子ちゃん』と呼び合うことで佳乃子の心の中で纏まった。
嶋田家で家事の手伝いをしながら(篤子は『佳乃子さんはそこまでしなくても……』と言うが、お世話になる身としてはじっとしていられない)篤子に霊視の制御を学び、嶋田夫妻が仕事に出掛けている間は教科書を手に取る――実家にいた頃より、のんびりと過ごせた。
そんな佳乃子は、健司曰く『貧乏な家の子から普通の女学生』に見えるぐらいにはなったらしい。
少し艶の戻った髪を二つのお下げにして、意気揚々と嶋田家を出発した。
家を出て、駅の方へ歩き、商店街を抜ければ目的地。
徒歩十五分、櫻川女子学院への通学時間より遙かに短い。
(前より遅く起きて良いなんて、贅沢よね)
気分も軽やかに歩いていると、袴や制服姿の少女達の数が増えてくる。
時代の移り変わりとともに安価で大量生産できる衣類が庶民には普及しており、制服を導入する学校も増えてきたという。
春日女子高等学校も庶民のお嬢さんを受け入れているからだろう。
白いセーラー襟に淡い灰色の制服姿の生徒もちらほらいる。
白い靴下を履いた肌が見え隠れする光景は、昔ながらのご婦人なら頬を染めるのだろうけど。
(決められた服があるのは便利よね。新しく買うのは無理だけど)
そんな生徒達を追い越し、追い越されたりしながら、佳乃子は意識を集中させる。
生徒達の後ろに、盆灯篭の影のような輪郭が少しずつ浮かび上がる。
霊視の制御にも、大分慣れてきた。
セーラー服に身を包んだ髪の長い少女には、何も見えない――霊力はなさそうだ。
箔をつけるために入れられた商家の娘さんか、優秀な奨学生かもしれない。
深緑の袴姿のおかっぱ少女は、桃の花びらが一つ二つ――弱いけど、霊力を持っているのだろう。
(“巫”は神楽を以て清めを行う者。“祝”は己が霊力で魑魅魍魎を祓う者……“巫”の力がある人には桃の花が見えるし、“祝”の力がある人は色々な形をしているみたいだけど……)
自分の足元を見ると、いつもと変わらぬ子犬の影。
これが成長するのかは、まだ分からない。
(できれば術者として大成するのが一番だけど……)
変態商人への嫁入りは、あくまで最終手段だ。
そんなことを考えながら歩いていると、もう校舎は目の前。
まずは職員室へ行くかと思った時――ふと、それは視界に入った。
人の大きさに匹敵するほどの九尾の狐。
炎のような、青白い光に包まれていた。
思わず、影の主を見上げる。
手入れの行き届いた腰まである黒髪に、白い肌。
釣り目がちの大きい瞳が特徴的な、愛らしい顔立ちの女生徒だった。
緻密な花模様の先染めの着物を纏い、後ろには二人の生徒を従えている。
割と格の高いお嬢様、しかも凄腕の術者――佳乃子はそう判断した。
「あんた」
お嬢様が口を開く。
佳乃子よりも小柄だが、声に凄みがあった。
こちらを見上げる瞳にも迫力がある。
「何を見てるん?」
相手の強張った顔と、揺れるしっぽを視界に収め、佳乃子は決断した。
「し、失礼いたしましたぁ!」
周囲の驚く顔も気にせず、可能な限りの早足で佳乃子は逃走した。
這う這うの体で、昇降口に駆けていく。
(あれはあかん……怒らしたらあかん)
自分どころか、率川家さえも危うい。
なるべく慎ましく無難に学院生活を終えたい佳乃子にとっては、近寄りたくない部類の人間であった。
「ああ、率川佳乃子さんね。初めまして」
急いで上履きに履き替えて、職員室まで逃走した佳乃子を待ち受けていたのは、着物姿の女性だった。
担任の先生らしい。
息を切らした佳乃子を見て、「そんなに急がなくてもよかったのに」と気遣ってくれた。
「幾つか説明しておきたいことがあるので、此方へ来てくださる?」
彼女に従い、『指導室』と書かれた部屋へと入る。
「櫻川からいらしたのですってね? 私もあそこの卒業生なのよ」
そう言って穏やかに微笑む担任の女性。
どうやら、それなりのお嬢様だったようだ。
「時々、櫻川から此方に編入してくる方もいるけど……皆さん、校風の違いに戸惑っておられるわ」
(はい……通学しただけで分かりました。なんとなく)
「佳乃子さんは徒歩通学と聞いていたけど……もし、お車で来るなら商店街で降りてくださいね。自転車もそこから押してもらう決まりなの」
「はい」
(自転車……自転車もいいなぁ)
まだまだ高級品なので、とても佳乃子には手が出せないが。
「櫻川の方では、家柄や財力で階級が決められていましたが……春日女子高等学校は、あくまで生徒たちは平等。基本的には“さん”付けで呼び合うから、注意してね」
そこは、庶民のお嬢さんも通う事への配慮なのだろう。
『佳乃子様』などと呼ばれたことのない身にとっては、特に気にならない。
(基本的にはって……それでも気を付けなければいけない御方もいるのかしら)
「各学年は藤組と梅組に分かれています。佳乃子さんは藤組に所属することになるけど……その違いは分かるかしら?」
「はい。霊力の有無ですね」
その件だけは、篤子からも聞いている。
自分の前に座る担任の後ろにも、桃の大樹が見えていた。
「ええ。春日女子高等学校は、霊力のある少女達を保護するための機関でもあります。中には、『ちょっと霊感のある』だけで、思春期を越えれば霊力を失う少女達も」
担任の表情が、少し真面目なものになる。
「だから、藤組に在籍していても、霊力に気付かずに学院生活を終える生徒たちもいます。基本的には、他の生徒達にそのことを聞くのは禁止。困った事は、藤組を担任している教師か校医の先生に相談してくださいね」
「……はい」
(学級内では静かに、主張しない、大丈夫)
当初の予定と変わらぬ生活を送れると確信した。
「ああ、もう時間ね」
壁掛け時計を見上げて、担任が呟く。
「今日は定例会議の日だから、一時間目は自習なの。級長の住吉小百合さんに校内を案内してもらおうと思ったのだけれど……」
(住吉家って、伯爵で市議会長の……)
肩書を聞くだけで、櫻川女子学院でも一組に在籍できそうな家格のお嬢様。
どんな方かしら、『さん』付けで呼んでも大丈夫かしら……と緊張したが。
「小百合さん、家庭の都合でお休みなの。代わりの方に頼んだから」
ちょっと安心。
担任が扉を開けると、一人の女子学生が窓辺に立っていた。
白い肌に、切れ長の涼やかな瞳。
黒より少し明るい髪を高いところで結んでいる。
それだけなら、佳乃子も時々している下げ髪姿だが、彼女はさらに三つ編みにしていた。
淡緑色の御召し物は、袖にレース模様があしらわれている。
わが国が外国との交易を始めた頃に流行った、あちらの衣服を意識した意匠。
少女は先生に一礼すると、佳乃子を見て微笑む。
「初めまして、住馬雪緒と申します」
「……あ、率川佳乃子です。よろしくお願いします」
揺れる髪の先に結ばれた、鮮やかな組紐を目で追っていたので反応が遅れた。
(住馬って大財閥のお家だったような……)
それはそれで緊張してしまう。
「案内は“副長”の住馬さんにお願いするわね」
担任の言葉に、彼女は口元を隠して笑う。
「あら先生、校則で定められているのは級長だけですわ。小百合さんが勝手に呼んでいるだけだもの」
「皆さんを手伝ってくれて助かっているのよ? 作法やダンスの授業に慣れない方も多いから」
そんな話をした後に、彼女は佳乃子に不在を詫びて去って行った。
「では参りましょうか、佳乃子さん」
雪緒さんが佳乃子の手を引く。
細く、柔らかい感触。
「よ、よろしくお願いします……雪緒さん」
色々な意味で緊張している佳乃子は、それを言うのがやっとであった。
先導する雪緒さんは、上機嫌なご様子。
「来てくださって嬉しいわ。ずっと、私の後ろの席、空いていたんですもの」
いこま、いさがわ――あいうえお順なら、確かに近そうだ。
職員室からはじめ、調理室や図書室を順に回って行く。
「ここは談話室。作法の授業でも時々使うわね。予約が入っていない日は自由に使っても大丈夫よ。後片付けさえちゃんとすれば」
「え、いいの? 誰でも?」
高級そうな椅子や机が並ぶ部屋は、櫻川女子学院でいう所のサロンに相当する場所に見えるが。
「ええ、噂の櫻川とは違うもの」
くすくすと笑う雪緒さん。
とても親切に案内してくれる雪緒さんであったが……佳乃子としては、距離が近い時に漂う匂いが気になる。
(うーん、何だっけ? 最近嗅いだような……)
百乃様のようなお香や、三組のお嬢さん達が使う舶来の香水とは違う、もっと、甘い――
急に雪緒さんが足を止める。
ぶつかる寸前の佳乃子に、さらに顔を近づけた。
あと少しで、口づけなんか交わしちゃいそうな距離。
「ねぇ、私、臭いかしら」
佳乃子の仕草から感じ取ったのだろう。
真剣な表情で此方を見つめてくる。
「い、いえ、滅相もございません。むしろ、美味しそうというか……」
焦る佳乃子を見て、彼女は笑う。
目を細めた艶やかな笑み。
「実はね……朝にお菓子焼いてきたの。紅茶のクッキー。後で一緒に食べましょ」
嶋田家に来てからというもの、篤子が時々出してくれる、舶来物の焼き菓子。
佳乃子の好物となった一つだ。
佳乃子の返事も待たず、雪緒さんはくるりと身を翻して、先へ進む。
「さ、一年藤組よ」
お入りになって、と言わんばかりに扉を開けてくれた。
「う、うん……」
佳乃子と言えば、胸の鼓動が収まらない。
ふう、と呼吸を整えて一歩。
自習時間の生徒達は、皆が思い思いに過ごしていた。
刺繍をする者、読書に専念する者、声を抑えておしゃべりする者……皆が、一様に佳乃子に注目する。
「皆さま、転入生を……と言うのも変かしら」
頬に手を当てて首を傾げる姿は可愛らしく、先程の艶っぽさは欠片も見えない。
雪緒さんの言葉に、彼方此方から忍び笑いが漏れる。
「率川佳乃子さんが、とうとう来られたわ」
その言葉に、佳乃子は背筋を伸ばす。
「率川佳乃子です。よろしくお願いします」
頭を下げる佳乃子に、拍手する生徒や「お願いします」と声を掛ける生徒達。
反応は様々であるが、三組の時のような風辺りの強さは感じず安心した。
「佳乃子さんの席はここよ」
「うん」
二つ続けて空いている席の後ろに座ろうとしたとき――
(あ、さっきの……)
校舎の前で見た、九尾の狐を従えたお嬢様と再会する。
しかも此方を睨んでいる様子。
佳乃子は、再び胸の鼓動が早まった。