伍、貧乏令嬢の門出
どうにも古さが目立つ、率川子爵家の屋敷の中――
隙間風吹く板張りの大広間には、一族のほぼ全員が集まっていた。
いつもよりは少し贅沢なおかずの乗った膳を前に、皆が沈痛な面持ちで座している。
「すまない、佳乃子……儂が不甲斐ないばかりに……」
佳乃子の祖父、率川権蔵が拳を握りしめていた。
あの騒動から紆余曲折を経て、鈴懸家と率川家ではいくつかの取り決めが成された。
佳乃子を(想像上の)変態商人から守ると息巻いていた女性――嶋田篤子の家に、佳乃子は住み込むことになった。
彼女に師事し、霊力の使い方を学ぶためだ。
そして、嶋田家に近い春日女子高等学校への入学を勧められた。
しかも、学費は鈴懸家が負担するとも。
“祝”の修行に専念した方がいいのでは、と佳乃子は思ったのだが、篤子が涙ながらに学生生活の尊さを語るので、ありがたくその申し出を受けることにした。無料だし。
かくして、当初の予定とは少し違えど、佳乃子の“己を高く売りたい作戦”は順調な滑り出しを見せたと言って過言ではないだろう。
明日の朝に佳乃子はこの家を出る。
今宵は、佳乃子の壮行会と相成る筈であったが――
(……私が帰ってこないかのような扱いになってない?)
率川家の皆は、術者は命を落とすかもしれない危険な立場にあるという話を重く受け止めているらしい。
両親の顔は今までで一番悲惨なものだし、弟の一人は涙を堪えきれずにいる。
「どうか気になさらないで、お爺様」
佳乃子は、皆を安心させようと微笑んで見せる。
実の所、佳乃子はそこまで重く考えていない。
元来、楽観的な性質であるし、家の為に出来ることがある方が嬉しい。
あの気高く美しい在原百乃様のように――とまではいかなくとも、率川子爵家は立派な華族だと胸を張れるようにはなりたいとは思う。
「これは天啓なのだから。佳乃子は、務めを果たして参ります」
そして佳乃子は二週間振りに畿内鉄道に乗り込んだ。
春寒も緩み始めたこの時期の汽車は、行楽を目的とした乗客でごった返していた。
御下がりの袴を纏い、祖父から譲り受けた旅行鞄を手に持った佳乃子は、口減らしのため奉公に出る少女にしか見えなかっただろう。
御笠市の地を踏みしめた佳乃子を出迎えたのは、嶋田篤子であった。
相変わらず目つきは鋭いが、佳乃子の手を引きいそいそと自宅まで案内してくれた。
鈴懸家の御屋敷からほど近い場所に、彼女の自宅はあった。
規模は、普通の庶民の一軒家。
簡素だが、外から見える庭木や花は手入れが行き届いているようだった。
門扉を抜けると、縁側に腰掛けている人物が見えた。
「おうおう、お嬢さんが噂の佳乃子ちゃんか」
日に焼けた肌と、白い物が混じった短髪。
作務衣を来たその男は、佳乃子に近付くと頭をわしわしと撫でる。
引き締まった体躯は、佳乃子に庭師や大工を連想させた。
「あなた、この方は率川子爵家のお嬢様で……」
篤子が眉を顰め、男の行動を窘めた。
(……じゃあ、この方が……)
「いえ、お師匠様、どうかお気遣いなく……これからお世話になります、旦那様」
深々と頭を下げる佳乃子を前に、男は大声で笑う。
「お師匠様、お師匠様かぁ。よかったな、あっちゃん。初めて弟子を持ったんじゃないか?」
彼は勢いよく佳乃子の肩を叩いた。
ちょっと痛い。
「あっちゃんは美人だけど顔が怖いだろぉ? で、ちょっと口下手で人見知りな所もあるし、若い娘さんが寄り付かなかったんだよ。でもな、気立ての良い優しい子なんだよ」
「そんなことを佳乃子さんの前で……」
頬を染める篤子。
(……御馳走様です)
佳乃子は心の中でそっと両手を合わせた。
「……そうか、学校の方はもう通わなくていいんだな」
「はい。先生方のご配慮で……」
(厄介払いなんだろうけど)
鈴懸家の支援で別の学校に入学すると担任に報告した当初、担任は半信半疑であった。
しかし、鈴懸家の文を見せると職員室は大騒ぎとなり、学院長に呼び出される始末。
結局の所、あと一か月足らずで卒業する筈だった佳乃子は、早々に卒業証書を渡されることとなった。
準備で忙しいだろうとか言われて。
――その担任が、『あの貧乏令嬢、卒業式でもみすぼらしい格好で来るのでしょうか? ただでさえ、三組の担任で肩身が狭いのに……』と零しているのを聞いたことがある佳乃子としては、半笑いで受け取るしかなかった。
(……ま、一緒に卒業をお祝いする方もいないし、別にいいかな)
同級生の方々には、何も言っていない。
これからお会いする機会もそうそう無いだろうし。
急に消えた貧乏令嬢の末路についてあれやこれや想像し、嘲ったり憐れんだりしてくれるだろう。
佳乃子が伝えた相手は、百乃様と孝子様だけ。
粗末な文に対して、とても丁寧な返事を書いて下さった。
今後、術者として大成することがあれば、是非恩返しをしよう――佳乃子はそう誓った。努力義務で。
「……ですので、今日から術者の修行に専念できます!」
まあ、過去の事を気にしてもお金にはならない。
佳乃子は未来の為、全力で修行に取り組む所存であった。
「まあまあ、佳乃子ちゃん。そう気張らずに、ゆっくり行こうや」
もっと食え食えと、舶来の焼き菓子が入った缶を此方に寄越してくれる篤子の夫――嶋田健司というらしい。
鈴懸家の使用人で、庭の手入れや修繕等をしているとのこと。
『俺はあっちゃんと違って、ただの庶民だからなぁ。爺でもなんでも適当に呼んでくれや』と言われたため、佳乃子はどう呼ぶか悩み中。
「俺は霊力のことは良く分からんが、健康な体と精神が必要だって鈴懸の御当主から聞いたぞ? たんと食べて寝る、それが必要じゃねえのか?」
同級生の中でも小柄なのは仕方ないとして。
痩せぎすで、艶のない肌と髪に、目の下の隈――家を出るまで働き通しだった佳乃子は、不健康に見えただろう。
「あっちゃんもな、佳乃子ちゃんがくるまでそわそわしちゃってさぁ。若い娘さんは何が好きかとか、後進の指導はどうすればいいのかとか、方々に相談しまくって夜通し悩んでるんだよ」
「そんなことを佳乃子さんの前で……」
再び、頬を染める篤子。
よくよく見れば、彼女の目にも僅かに隈が出来ている。
「……恐れ入ります」
佳乃子は焼き菓子片手に身を竦ませた。
百乃様に孝子様に鈴懸様に嶋田夫妻――霊視があるというだけで、多くの人にここまで支えてもらえるというのか……なかなかの重圧である。
「……とにかく」
篤子は、ごまかすように、咳払いを一つ。
「まずは、霊視の力を制御することから始めようと思います。そのままでは日常生活に障るでしょうし」
確かに、と佳乃子は心の中で頷く。
常に見えざる物が見えるというのは、どうにも疲れてしまう。
「お願いします」
頭を下げると、傍らに佇む子犬も、小さくお辞儀をしたように見えた。