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弐、最上位と最底辺

 華族のお嬢様は、休日も忙しい。

 授業の予習復習にお花や踊りのお稽古、お茶会にお見合い……家の為に己を磨き、人脈を広げ、良き殿方と巡り合う必要があるのだ。

 ――それも、貧乏子爵家の率川佳乃子には縁のない話。

 家事と内職で彼女の一日は終わる。


 佳乃子は朝から、洗濯物を干すついでに国語の課題を片付けようとしていた。

 お嬢様は詩歌の才能も磨かなければいけないらしい。

「春を待つ 枯れ紅梅に 犬の影」

(……また先生に叱られちゃうかなぁ)

 こんな句を思いつくのは、自分の教養の無さだけでは、断じて、ない。

 洗濯籠の足元を見ると、襤褸の草履と茶色い子犬。

 それは、輪郭が不明瞭で、触ることが出来ない。


 ここ数日、佳乃子は奇妙な現象に苛まれていた。

 人の後ろに、時々、幻覚が見えるのだ――盆灯篭から透かしたような影の形が。

 動物や植物など、種類は様々。

 学校でも、屋敷でも、自分以外の人間は変わらぬ日常を過ごしているようなので、どうやら佳乃子だけに見えているらしい。

 最初こそは寝不足のせいかと気にも留めていなかったが、日を跨いでもそれは変わらない。

 誰にも相談できず、佳乃子は悶々とした日々を過ごしていた。

(こんなこと言っても、頭がおかしいとしか思われないもの)

 貧乏令嬢に加えて、どんな渾名で呼ばれるかわかったものではない。

 しかし、日常生活に差し障りがあるのも事実。

(明日、校医の先生に相談してみようかな)

 校医ならお金がかからない――そんな思いもあった。


 そう決意し、腰を曲げてよいしょと籠を持ち上げる。

 室内へと戻る佳乃子に付き添うように、子犬は小走りで付いて来るのであった。



 翌日、授業の終わりに保健室へと赴いた佳乃子であったが、校医は話を聞くと『栄養失調による眼病だろう』と面倒臭そうに断じた。

 そして、一組のお嬢様が貧血で運ばれたのを機に保健室を追い出された。


「あーあ……」

 昇降口までの道のりを、とぼとぼと歩く。

 いつもならそそくさと帰るはずの道のりが、今日はとても長く感じる。

 学校から屋敷までは、さらに三十分以上掛かるのに。

(栄養かぁ……どうしたらいいんだろう)

 率川家は貧乏ながらも、常に目や歯などの手入れには注意していた。

 一度健康を損ねると、お金が掛かるのだ。

 日々金策に奔走しながらも、両親は子ども達が食うに困らぬよう配慮してくれている。

 これ以上、負担を掛けるわけにはいかない。

(目に良い物ってなんだろう……その辺に生えていないかなぁ)


 下駄箱の前で足を止める。

 内履きを履き替えようとすると、また子犬がちらついた。

(何で犬なの? 柴犬みたいだけど……食べたいのは牛なのに……)

 眉の下のくぼみを、指で押す。

 目にいいと聞いて始めたこれも、効果はもたらさないようだが。


「あら……貴女、どうかなさったの?」

 佳乃子は最初、その声が自分に向けたものだと気付かなかった。

「目に埃でも入ったのかしら?」

 近付いて来る足音を察し、瞼を開く――目に飛び込んだ袴の色に、佳乃子は驚愕した。

(紫色……!)


 櫻川女学院の上位層に当たる、一組のお嬢様方。

 その中でも、濃い紫色の袴を身に纏うのは、ごくごく一部の生徒だけ。

「ほら、そんなに擦ってはいけませんわ」

 レースの手巾を手に、ふわりと微笑むその御方こそ、櫻川女子学院で最も高い身分の在原百乃(ありわらももの)様だった。

 畿内の四大名家に匹敵するほどの権力を持つ、在原家のお嬢様。

 華族の末端近くに存在する佳乃子でも、その御姿は知っている。

『一笑千金』『羞花閉月』と評されるほどの容姿、後輩達が憧れる優美な所作、何をやらせても優秀で、まさに完璧なお嬢様――佳乃子からすれば天上の存在ともいえる彼女が、何故か目の前にいた。


 よく手入れされた白い肌と、艶やかな長い黒髪が眩しい。

 大きな丸い瞳に見つめられて、佳乃子の心拍数は跳ね上がる。

 百乃様は白魚のような細い指を、佳乃子の目元に近付ける。

 触れる手巾も、佳乃子が普段使っているような物より柔らかく、なんだかいい匂いがした。


「百乃様、下賤な者に易々と近付いてはいけませんわ! ほら、品のない格好!」

「ああ、百乃様ったら何とお優しい……」

 彼女の後ろにいる紫の袴姿の生徒達が、口々に叫ぶ。

 静かにしている生徒も一人いるが、佳乃子の動向を見張っているように感じた。

(取り巻きがいっぱい居るってすごいなぁ……私も、お金貰えるならやりたいけど)

 居心地の悪さを感じて、彼女達から目を逸らす――不意に、地を這う黒い物体が目に入った。

 丸くて、足がいっぱい生えた、拳ぐらいの蜘蛛。

「うわっ」

 佳乃子は咄嗟に踏みつける。

 「ひぃっ」と、誰かが短く悲鳴を上げた。

だんっと足を鳴らす佳乃子を前にしても、百乃様は微動だにせず穏やかな微笑みを崩さない。

「どうかなさったの?」

「いえ、申し訳ありませんっ。ちょ、ちょっと、虫がですね……」

 お嬢様方に見せるわけにはいかないと、佳乃子は百乃様に背を向けた。

 恐る恐る内履きの裏を確認するが――見えるのは、すり減った靴底だけ。

 危惧していた存在は見えなかった。

(見間違い……? また、幻覚だったのかな?)

 これはとうとう本格的に目がおかしくなったのでは――佳乃子は憂鬱な気分で振り返る。

 自らの奇行を謝り、さっさと撤収しよう。

 百乃様の手巾は弁償した方がいいのか……この状況をどう切り抜けるか必死に考えていた佳乃子が目にしたのは、奇妙な光景だった。


「あ……あぁ……」

 取り巻きの内の一人、くるくると巻いた髪を肩に垂らした、一番派手な見た目のお嬢様――誰よりも佳乃子を見下げるような発言をしていた筈の彼女が、廊下にへたり込んでいた。

 顔は青ざめており、息も苦しそうだ。

「ゆかりさん? どうなさったの?」

 近くにいた生徒達が彼女を取り囲む。

(え……貧血かな?)

 この場合は、一番“格下”の佳乃子が保健室まで走るのが適切なのだろうか。

 百乃様にそれを申し出ていいのかと悩む佳乃子の目に、再び黒いものが映る。

「あ、また蜘蛛」

 佳乃子は思わず指差してしまった――格上のお嬢様を指差すなど、両親を呼び出して叱られそうな失態だ。


 先程よりも大きい黒い蜘蛛が、ゆかり様の傍らにいる。

 痙攣し、弱っているように見えるが。

 その言葉を聞き、ゆかり様の周りにいた生徒達がさっと離れる。

 紫の袴の集団が廊下の彼方此方を見渡し、そして――一斉に、佳乃子に注目する。怖い。皆が驚愕の目で佳乃子を見つめている。怖い。


 周囲のお嬢様達は、見ない振りをしながら下校して行く。

 正直言って、羨ましい。


「貴女……」

 ただ一人、芍薬のような佇まいを崩さない百乃様は、佳乃子を見て微笑む。

(はふり)だったのね? しかも霊視の能力までお持ちだなんて……すごいわ」

「はふり? れいし?」

 格上のお嬢様達の前であることも忘れて、佳乃子は首を傾げる。

 彼女が初めて聞く言葉だった。

「あの方は、確か……率川家の……」

「率川家に、術者がいるとは聞いていませんが」

「ゆかりさんは、あの方を害そうとして、霊力が切れたようですわね」

 後ろの方々が囁く話の内容も、佳乃子には全く理解できていない。

 佳乃子が取るべき行動は、ただ一つ。

「あの……申し訳ありません。私、なんか……幻覚が見えるって言われて……本当に、申し訳ありませんでしたっ!」

 そう叫ぶと、深く頭を下げる。

「それでは、失礼いたします!」

 頭を少し上げ、なるべくお嬢様方の顔を見ないようにして踵を返し――


「待ちなさい」

(ひいっ)

 これまで一度も聞かなかった、怜悧な声が佳乃子を引き留める。

 ただ一人、佳乃子を射抜くような瞳で見ていたお嬢様だった。

 背は高く、髪を一つに纏めた凛々しい印象の生徒である。

 後ろには、剣を構えた背の高い影。

「貴女は、何も知らないのか?」

「は、はい? 何のことでしょう?」

 竦み上がる佳乃子を一瞥すると、彼女は大きく溜め息を吐く。

 一般的には品が無いと言われる仕草だが、様になる格好良さがあった。


「百乃」

 そう呼び掛ける姿だけで、彼女が集団の中でも高い地位にいることは分かった。

「どうやら、話を聞く必要があるらしい」

「……ええ、孝子の言う通りだわ」

 百乃様は少し考える素振りを見せた後、両の手を合わせる。

 ぱん、と響く音に、騒めいていた集団が口を閉じ背筋を伸ばした。


「貴女、鈴懸様に連絡を。貴女達はお茶の準備をお願いね。残りの方々は、ゆかりさんの介抱を……葛城家とのお付き合いを見直さなければいけないけど……」

 その言葉を受け、お嬢様達が方々に散っていく。

 残されたのは、百乃様と孝子様と、佳乃子だけ。


(ええ……どうしよう……鈴懸って、四大名家の一つよね? 私、何かしちゃったの?)

 内心の動揺を隠しきれない佳乃子に、百乃様は優しく語り掛ける。

「よろしければ、お茶でも一緒にいかがかしら? お話を聞かせてほしいの」

“よろしければ”なんて枕詞を付けていても、佳乃子にとっては絶対的な命令に等しい。

「は、はい……喜んで……」

 引きつった口元で、何とかそれだけを絞り出す。

(私、どうなっちゃうんだろう……)

 率川佳乃子、十五歳――人生で初めてお誘いを受けるのであった。

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