拾壱 貧乏子爵家の切り札
夏季休暇を終えた春日女子高等学校は、賑わいを取り戻していた。
皆が旅行の思い出話で盛り上がる中、佳乃子は幸子さんと教室の隅で身を寄せ合っている。
『避暑』や『バカンス』の話は、二人には刺激が強い。
「旅行かぁ……幸子さん、行ったことある?」
「基礎学校を卒業した時に、お母さんと……近くの温泉だけど」
「いいなぁ。私、家族旅行なんてまったくよ」
外国の聞き慣れない地名や料理の話が聞こえても、佳乃子にはとんと理解できない。
「よくあそこまで盛り上がれるわね」
隣に並ぶ知世さんは、読書に勤しんでいる。
出来るだけ静かな場所を求めた結果、此処に落ち着いたらしい。
ばん、と荒々しく開けられた扉に、皆が注目する。
入って来られたのは、賢木美弥子様。
いつものように、浜木綿家の桃さんと桜さんを従えている。
彼女は教室を見渡し――ある一点で止まった。
(え……私?)
佳乃子と目が合った、気がした。
ずかずかと此方へ歩み寄って来る。
級友達の合間を掻き分けてくる様は、まるで野分のよう。
「率川佳乃子」
「は、はい」
大きな瞳に見上げられて、緊張する。
吊り上がった瞳とへの字に結んだ唇は、一学期と変わらない。
「宗像家と大層なお付き合いをしているようやけど……どういうつもりなん?」
「た、大層……」
美弥子様のお言葉の意図をはかりかねて、佳乃子は困惑した。
“祝”の仕事に協力したことか、それとも、助けたお礼を頂いたことか……もしかすると――
(……まさか、許嫁とか?)
佳乃子は戦慄する。
幼い頃からの婚約など、名門華族ならよくある事。
賢木家と宗像家、釣り合いはとれる。
彼はまだ中学生だが、なかなか整った顔立ちをしていたし。
義理堅い彼のお礼を、美弥子様は気に入らなかったのかもしれない。
(これはまずいんじゃ……)
京師の名門と諍いを起こしたなんて、鈴懸家に迷惑が掛かる。
さらには率川家がどのような扱いを受けるか分からない。
(……かくなる上は)
佳乃子の取れる手は一つ。
祖父から、『どうしても』という時に使えと言われた最終手段。
「……申し訳ありませんでしたぁっ」
佳乃子はその場に土下座した。
藤組の教室は騒然となった。
先生を呼びましょう、早く小百合さんを、と囁く声が聞こえる。
騒動の中心に近付く、勇敢な方々もちらほらと。
「美弥子様、なに怒ってるの? つまみ食いぐらいなら許してあげて」
「佳乃子さん、落ち着いて……少し別の部屋に行きましょう? ね?」
浜木綿のお二人も動揺しているらしく、美弥子様の周囲を右往左往していた。
「み、美弥子様? 何があったんですか?」
「美弥子様、どうかお怒りを鎮めて……」
「どうか、どうか、弟達の命だけは……」
佳乃子に出来るのは、頭を擦り付ける事だけである。
「佳乃子さん、どうしたの? お金? お金なら、私も一緒に働くから……」
幸子さんが涙目で佳乃子に寄り添う。
「はぁ……」
知世さんがぱたんと本を閉じる。
いつもの姿からは想像も出来ない物音を立てて、美弥子様を冷ややかに見据えている。
「お華族様同士の事情は分からないけど、学校内に持ち込むのはどうかと思うわよ」
美弥子様の表情は変わらない。
「どうかしたの?」
教室に来られたのは、小百合さんと雪緒さん。
「これは、どういう事情なのかしら?」
小百合さんに周囲の生徒がひそひそと耳打ち。
「あらあら、佳乃子さんったら」
雪緒さんが佳乃子を抱きしめる。
「格上の賢木家に睨まれて、怖かったわねぇ」
雪緒さんのお声は、いつも通り優しくて、少し悪戯めいたもの。
「……雪緒さん楽しんでる? これ、ひょっとしてお芝居?」
幸子さんが囁く。
(……そうなの?)
佳乃子は少し顔を上げ、美弥子様の様子を盗み見た。
当の美弥子さまは紅潮し、ぷるぷる震えている。
(どこかで見たような……)
佳乃子は、既視感を覚えていた。
(確か、鈴懸様のお屋敷で……)
佳乃子が思案している内に――
「う……うっ……」
美弥子様の瞳から涙が溢れた。
『えぇ……』
どうして――と、藤組の心が一つになる。
「……今日は自習にするわよ、もうっ」
呆れた様子の小百合さんが叫ぶ。
後ろには頭を抱える担任の先生が居た。
美弥子様は、賢木家の御家族に大層大事に育てられたらしい。
それはもう、一人では何もできないぐらい。
京師の女学校でも侍女に囲まれて過ごし、皆が気を使ってしまうので、両親は心を鬼にして離れた学校へ通わせることにしたそう。
美弥子さんは、友人を作る事を目標にしていたのだが――
「みんなあっちと同じで、美弥子様美弥子様って遠巻きにするし……」
涙とか言えないものとかでお顔を汚す彼女は、幼子のよう。
「だって、桃さんと桜さんが美弥子様って呼ぶから」
「すっごい偉いのかなって」
ねえ、と顔を見合わせる生徒達。
先生方のご配慮で、一時間目の授業はお休み。
気兼ねなくご意見を、という事で、皆が思い思いの場所に陣取っている。
佳乃子は教室の中央、何故か他の方の椅子を借りて美弥子様と向かい合っていた。
隣に座る幸子さんが、佳乃子の癒し。
「あー私達、その……浜木綿だけど、浜木綿じゃないというか……」
桃さんが弱々しく片手を上げる。
「分家の分家ぐらいの下っ端なの。賢木家に美弥子様と同じ年のはふ……丁度いい子が居なかったから、浜木綿の当主様からの頼みで……美弥子様のお世話というか護衛というか……」
“祝”と言いたかったらしく、桃さんの口調はしどろもどろ。
ご学友というより、側付きの気分だったのだろう。
「京師とか大和のじゅつ……華族の情勢なんて分からないし、佳乃子さんと何かあったのか聞いても、美弥子様はお答えしてくださらないし……」
美弥子様の顔を拭く桜さんも困り顔。
「へーそうなんだ。お華族様も大変だねぇ」
比較的、佳乃子達に近い席にいる尚子さんが口を開く。
勉学にはあまり熱心ではないけれど、明るく人懐っこい性格で、『お華族様』にも物怖じしない気質のお嬢さん。
「皆様方も気にされていた様子でしたけど、賢木家と率川家には、特に問題は無いのよね?」
雪緒さんの言葉に、「ええ」とお嬢様達が相槌を打つ。
京師の名門と大和の貧乏華族――特に、接点は無い。佳乃子を支援している鈴懸家が絡むと、また事情は変わるのだろうけど……。
尚子さんと雪緒さん――一年藤組の中でも頼りになる存在の二人が、今回の話し合いを盛り上げていた。
級長の小百合さんは、聞き役に回っている。
「じゃあさ、美弥子様は佳乃子さんに何で怒ってたの?」
「別に、怒ってたわけやない……ただ」
「ただ?」
覗き込む尚子さんから顔を逸らし、美弥子様は小さく呟く――見てたやろ、と。
「……見てた?」
佳乃子は首を傾げる。
見られたことは数あれど、見た覚えなど――
「……四月。最初の時」
「あ」
その言葉で思い出した。
「あの視線で、何となく分かってん。同じなんやなって」
「同じ?」
美弥子様と佳乃子の共通点など、背が低い事以外に――“祝”である事くらいか。
「仲良くなれるんちゃうかな……とか思ってたのに、ずっと荒城のもんと仲良うして」
「荒城?」と隣で幸子さんが呟く。
荒城姓の生徒は一年藤組にはいない。
荒城は大和府中部に住む華族。
御諸山の一帯を守護する術者の家系。
自分のように、支援を受けている生徒がいるのかも……と、佳乃子は考える。
「はふいのはへはしって聞いたから、うちが色々教えたろって思ってたのに、今度は宗像家と懇意にしているみたいやし……」
咄嗟に桜さんが手巾で口元を抑えたけと、多分『“祝”の駆け出し』と言っていたのだろう。
「はふい?」
「破風板って聞こえたけど」
「ふうん。お家の修理のことかな?」
小百合さんの答えに納得した様子の幸子さん。
小百合さんのお顔を見る限り、必死に誤魔化しているんだな……という印象。
複雑そうな顔をしているのは、“祝”や“巫”の修行を積んでいるらしき生徒達。
佳乃子が霊視の力で見る限り、『術者になる程の霊力は無さそう』あるいは『よくわからない』と区分した方々は、特に表情を変えない。
「じゃあ、宗像家に婚約者が居るわけじゃ……」
佳乃子が恐る恐る尋ねるが、美弥子様は「何の事?」と首を傾げるだけ。
「美弥子様、決まった相手は居ないそうですよ」
「御両親のお眼鏡にかなう方が見つからないとか」
桃さん桜さんが補足してくれた。
「あー良かった」
佳乃子は胸を撫で下ろす。
「良かったの?」
「うん。すごい慰謝料を請求されるかも、とか焦っちゃった」
「良かったね!」
幸子さんと手を取り合う。
悲しみも喜びも分かち合う心の友だ。佳乃子の中では。
それを見て、美弥子様が唇を尖らせた。
「……じゃあ、結論は出たわね」
小百合さんが時計を見ながら立ち上がる。
時刻はもう、一時間目が終わる頃。
級長としては、これ以上授業を遅らせるわけにはいかないのだろう。
「じゃあ、これからの方針だけど――」
小百合さんは、黒板にすらすらと列記した。
一つ、皆はなるべく美弥子“さん”と呼ぶ。
一つ、美弥子さんは挨拶をきちんとする。
一つ、佳乃子さんは良く考えて土下座する。
小百合さんのまとめに、「基礎学級前の内容もあるわね」と冷静に呟いたのは知世さんだった。




