壱、率川佳乃子は貧乏令嬢である
暖かい日差しが射すとはいえ、まだまだ寒い初春の朝――
櫻川女子学院中等部の正門前は、登校中の生徒達で混雑していた。
良き妻、良き母を目指す華族女子の学び舎として設立された櫻川女子学院は、設立当初から変わらぬ佇まいと校風を保ち続けている。
庶民のお嬢さんは門前払い。
時代の移り変わりと共に“お金で爵位を買った”ような身分の方々が増えてしまったが、家格による序列が決められていた。
登下校一つにしたってそう。
正門を越えて車から降りることが出来るのは、伯爵家以上の身分だけ。
そして身分が上の方に順番を譲る。
校則に明記されていない暗黙の了解を学ぶことも、生徒達には求められていた。
力車や自動車から降りた艶やかな袴姿の女生徒達が、淑やかに挨拶を交わす中、隙間を縫うようにして歩く生徒が一人。
二つのお下げを揺らし、早足で校舎へ向かう。
男物のような黒くて分厚い外套と、擦り切れた臙脂色の袴。
肩から薄汚れた帆布の鞄を下げた、小柄な少女だった。
少女は顔を伏せ、誰とも言葉を交わさずにそそくさと駆けて行った。
周囲の生徒も、彼女の存在など居ないもののように振る舞っている。
率川佳乃子は、学院内で貧乏令嬢と噂される有名人だった。
幾度かの大戦を終え、舶来の文化を取り込み、国の在り方が変わりゆく興化の時代――率川家は、時代の変化に取り残されて衰退しつつある華族の内の一つだった。
大戦以降は目立った功績も無く、事業も今一つ。
家族全員で働いて、屋敷を維持するのがやっとの状態。
佳乃子も家事や内職に明け暮れ、学院での勉強もお稽古も何一つ身についていない。
華族女子の義務として学院に通ってはいるものの、時間的にも経済的にもそろそろ厳しい。
そんな佳乃子は学院内でも浮いた存在で、気心の知れた友人なんている筈もなかった。
かじかむ手を擦り合わせながら、三年三組の教室へと滑り込む。
家柄で全てが決まるこの学院内で、三組といったら、どの学年でも一番下。
最初こそは二組に在籍していた佳乃子であったが、三年に進級した折に、とうとう“降格”させられてしまった。
佳乃子以外は男爵家のお嬢様ばかりの教室は、皆が財力を競い合うように贅を凝らした着物で通学している。
その中でただ一人、祖母の御下がりを着ている佳乃子は嫌でも目立った。
進級してから最初の内は『古臭い』『貧乏臭い』と聞こえよがしに嘲笑されたものだ。
暫くは、黙って聞き流していたのだが、ある日、とうとう耐え切れなくなった。
「――さんは、美味しそうな脂の臭いがする……いいなぁ」
思春期に入って、ちょっとふくよかになった体つきを気にしていたその生徒は、泣いた。
事情を聞いた男爵家は、『なんか……申し訳ない』と、良いお肉をたくさんくれた。
すき焼きおいしゅうございました。
そんな事件を起こしてからは、佳乃子は一部の級友達に目を付けられている。
「あら、佳乃子さん?」
自分の机に向かう佳乃子の前に、三人のお嬢様が立ち塞がった。
「ごきげんよう、今日は朝ごはん食べましたの?」
「そんな薄い御召し物では寒いでしょうに……」
「本当に、御可哀想……」
身を寄せ合って、泣くお嬢様達。
適当に挨拶を返し、自分の席に着く佳乃子の後ろで、さめざめと泣く。
ほぼ日課と化している行為だ。
彼女たちにとって、佳乃子は子爵令嬢ではなく“可哀想な女の子”の括りに入るらしい。
佳乃子には、言い返す気力も無い。
(どうせ私は、ただの貧乏娘だもの)
華族の矜持など、佳乃子は持ち合わせていなかった。